出典 |
フットノート |
ローマ 3:26 注2 |
あるいは、イエスにある信仰(参照,22節のノート1)。 |
ローマ 3:26 注1 |
神が信者たちを義とされるのは、新約時代のイエスを信じる者たちに、神の義を明らかに示すためです。 |
ローマ 3:27 注1 |
文字どおりには、それは完全に締め出されました。 |
ローマ 3:30 注1 |
割礼の者、すなわち、神の民としての地位をすでに持っている者について、信仰は、神によって義とされるための源です。ですから、彼らが義とされるのは、信仰のゆえです。無割礼の者、すなわち、地位では遠く離れていて、神の民ではない者について、信仰は、神によって義とされ得る地位に達する道です。ですから、彼らが義とされるのは、信仰を通してです。 |
ローマ 3:30 注1 |
割礼の者、すなわち、神の民としての地位をすでに持っている者について、信仰は、神によって義とされるための源です。ですから、彼らが義とされるのは、信仰のゆえです。無割礼の者、すなわち、地位では遠く離れていて、神の民ではない者について、信仰は、神によって義とされ得る地位に達する道です。ですから、彼らが義とされるのは、信仰を通してです。 |
ローマ 4:1 注1 |
パウロは第3章で、キリストの死によって達成された客観的、地位的な義認について語った後、この章で、キリストの復活によって遂行される主観的、性質上の義認を見せています。彼はアブラハムを例に用いて、十分で、生ける義認が、堕落した人を神以外のいっさいのものから召して、ご自身に戻す神のさらに深い働きであることを示します。それは、彼らが自分自身にではなく、神に完全に信頼するためです。創世記第15章で、アブラハムが神によって義とされたのは、罪に関してではありませんでした。むしろ、それは子孫を獲得し、王国を生み出して、世界を相続するためです(13節)。同じように、この章が示すのは、義認が単に、人が神の罪定めから解放されることだけでなく、それにもまして、神が多くの子たちを獲得し(8:29―30)、キリストの一つからだを構成し(第12章)、神の王国として(14:17)、彼の永遠の目的を成就するためであることです。第3章で扱われた客観的、地位的な義認は贖いと関係があり、この贖いによって、わたしたちは神に和解させられます。第4章で扱われている主観的、性質上の義認は命と関係があり、この命によって、わたしたちは、神の永遠の目的を成就する相続人となるのです。これは、人の肉と天然の能力が断ち切られ、割礼されることを必要とします。 |
ローマ 4:1 注2 |
アブラハムはすべての信者の先祖です。すなわち、無割礼で同じ信仰を持つ者の先祖であり、割礼の者で同じ信仰の足跡を歩く者の先祖でもあります。 |
ローマ 4:2 注1 |
これは、アブラハムが自分で神のために何かを行なったことを言います。それは彼が、自分の努力の実を神が約束された子孫として、神に受け入れていただこうとしたことに見られます(まずロト、次にエリエゼル、次にハガルによって生まれたイシマエル)。しかしながら、アブラハムが義とされたことの結果は、彼が最終的に神のために自ら働くのをやめることです。これは割礼、すなわち肉を断ち切ることで象徴されます(11節)。ですから、割礼は、神がアブラハムに、自分で行なうことをやめて、神にある信仰によって生きるようにと、絶えず思い起こさせるものとなりました。義認は、肉の行ないや達成と何の関係もありません。 |
ローマ 4:3 注1 |
神を信じることは、神が繰り返しアブラハムに現れたことに対する、彼の自然の反応でした。神はアブラハムに何度も現れましたが(創12:1―3,7.13:14―17.15:1―7.第18章.使徒7:2)、毎回、神の栄光、神ご自身を、アブラハムに注入されました。ですから、アブラハムの信じることは実際上、神が彼に注入された要素が、内側からわき上がってきたものです。アブラハムが信じたことに対する神の反応は、彼を義とすること、すなわち、彼を義と勘定することです。この勘定することは、働きから来るのではなく、彼が神を信じたことに基づいていました。 |
ローマ 4:4 注1 |
天然の人は常に、報酬(賃金)を受けようとして、神のために働きます。天然の人には、何の恵みも、信仰も、享受もありません(参照,出12:45)。 |