出典 |
フットノート |
ローマ 4:17 注3 |
これは、神の創造の大能です。創造する神として、彼は造り出すのに何の材料も必要とされません。神はただ語ることによって、無から何かを創造することができます。「主が仰せられると、そのようになる」(詩33:9)。 |
ローマ 4:18 注1 |
文字どおりには、望みの上で。アブラハムは、信仰によって義とされた者の模範として、望んでいる事柄によって生きました(参照,ヘブル11:1のノート3)。 |
ローマ 4:19 注1 |
これは、アブラハムの天然の力が終わらせられたことを示します。この終結は、神が彼を主観的に義とされることと関係があります。 |
ローマ 4:24 注1 |
わたしたちを義と勘定する信仰とは、わたしたちの罪のために義によってキリストを裁き、わたしたちに代わって義によってキリストを死なせ、義によってキリストを死人の中から復活させた神を、わたしたちが信じることです。 |
ローマ 4:25 注1 |
キリストの死は、神の義の要求を成就し、完全に満たしました。ですから、わたしたちは彼の死を通して、神によって義とされます(3:24)。キリストの復活は、彼がわたしたちのために死なれて神の要求が満たされたこと、彼の死のゆえにわたしたちが神に義とされていること、この復活した方にあって、わたしたちが神の御前に受け入れられていることを証明します。さらに、この復活した方は、わたしたちの中で、わたしたちのために、神によって義とされ、常に神に受け入れられる生活を生きられます。 |
ローマ 5:1 注1 |
わたしたちが信仰によって義とされ、神の中に入る過程は、まだ完成されていません。ですから、パウロは「神と共に」ではなく、「神に対して」という言葉を用いたのです。恵みはわたしたちの立場のためですが(2節)、平和、平安は、わたしたちの歩みのためです。 |
ローマ 5:2 注3 |
信仰は、まずわたしたちを恵みの中へ入ることができるようにし、次に、恵みの中で堅固な立場を与えます。 |
ローマ 5:2 注2 |
恵みは、三一の神ご自身が手順を経て、わたしたちが彼の中に入り、彼を享受することができるものです。ここの恵みは、最も深い意味で、わたしたちの享受としての三一の神です。それは功績なしに受ける恩恵や、単なる外側の祝福以上のものです。わたしたちは神の祝福の下にあるだけでなく、神の恵みの中にいるのです(参照,2節のノート3)。 |
ローマ 5:2 注1 |
信仰はわたしたちを義とし、肉と、その天然の能力と努力を切り去ります。信仰はまたわたしたちに、神の恵みの中へ入っていかせます。もしわたしたちが肉とその天然の努力にとどまっているなら、神の恵みを知ることもないし、享受することもできません。しかし、もし信仰によって生きるなら、神の恵みの全き享受の中へ入っていくでしょう。 |
ローマ 5:2 注5 |
わたしたちの望みは、わたしたちが神の栄光、すなわち、彼の表現へもたらされることです。これは完全に、来たるべき千年王国で実現します。そこにおいてキリストは、わたしたちの栄光として現されます。今日、わたしたちはこの来たるべき栄光の望みの中にあります(参照,ヘブル11:1のノート3)。 |