出典 |
フットノート |
ローマ 5:10 注2 |
第5章10節(5:10)は、本書で啓示されている神の全き救いが、二つの部分から成っていることを示しています。一つは、わたしたちのためにキリストの死によって達成された贖いであり、もう一つは、キリストの命によってわたしたちに与えられた救いです。本書の初めの四つの章は、キリストの死によって達成された贖いについて、詳細に論じています。後半の十二の章は、キリストの命によって与えられた救いについて、詳しく語っています。第5章11節(5:11)の前で、パウロはわたしたちに、わたしたちが救われているのは、贖われ、義とされ、神に和解させられたからであることを見せています。ところが、わたしたちはまだ、聖別され、造り変えられ、神の御子のかたちに同形化されるまでには、救われていません。贖い、義認、和解は、キリストの死によってわたしたちの外側で達成されたものであって、客観的にわたしたちを贖います。聖別、造り変え、同形化は、キリストの命の働きによってわたしたちの内側で達成されたものであって、主観的にわたしたちを救います。客観的な贖いは、罪定めと永遠の滅びから、わたしたちを地位において贖います。主観的な救いは、わたしたちの古い人、自己、天然の命から、わたしたちを性質において救います。 |
ローマ 5:11 注1 |
神の中で勝ち誇るとは、神を勝ち誇り、歓喜することを意味し、神がわたしたちの享受であり、喜びであることを示しています(参照,2節のノート4)。わたしたちはこのように勝ち誇り、歓喜し、享受して、キリストの命の中で救われつつあります。 |
ローマ 5:12 注1 |
すなわち、アダム、最初の人、全人類の祖先。彼は罪を通して死をもたらしました。アダムとは対照的に、キリスト、第二の人(Iコリント15:47)は、義を通して命をもたらされました(17―18節)。 |
ローマ 5:12 注2 |
原文は単数。11節(11節)までは、複数の罪が取り扱われてきました。12節(12節)からは、単数の罪が取り扱われます。第5章から第8章で、罪は人格化されているかのようです。罪は単なる行為ではなく、人のようであり、入ってきて(12節)、支配し(21節)、人を支配し(6:14)、人を欺いて殺し(7:11)、人の中に住み、彼らの意志に反してさまざまな事を行なわせます(7:17,20)。罪は生きていて(7:9)、極めて活発です。ですから、罪は悪しき者サタンの邪悪な性質であるに違いありません。サタンは、アダムの堕落を通して人の中に自分自身を注入し込み、今や堕落した人の中に住んで、活動し、働いている罪の性質そのものとなったのです。この内住している、人格化された単数の罪の性質は、すべての外側の、複数の罪の行為の根源です。 |
ローマ 5:12 注3 |
あるいは、世の人々。人類のことを言っています(ヨハネ1:29.3:16)。 |
ローマ 5:12 注4 |
死は人の堕落の究極的結果です。まず人の霊が死に、そしてついには人の体も死にました。死と罪とは分離することができません。一方がある所には、他方もあります。さらに、死は将来の肉体の苦しみだけではなく、人が日ごとに巻き込まれているものです。 |
ローマ 5:12 注4 |
死は人の堕落の究極的結果です。まず人の霊が死に、そしてついには人の体も死にました。死と罪とは分離することができません。一方がある所には、他方もあります。さらに、死は将来の肉体の苦しみだけではなく、人が日ごとに巻き込まれているものです。 |
ローマ 5:13 注1 |
律法が与えられる前にも、罪は存在していました。しかし律法が与えられる前、それは人に現されず、神によって人に勘定されませんでした。 |
ローマ 5:14 注2 |
アダムからモーセまでは、律法前の(律法のない)時代でした。モーセからキリストまでは(ヨハネ1:17)、律法の時代でした。キリストの最初の到来から万物の復興(使徒3:20―21)までは、恵みの時代です。キリストの再来から千年期の終わりまで(啓11:15.20:4,6)は、王国の時代です。これらの時代は、旧創造において神の新創造の働きを完成するために、神によって用いられます。 |
ローマ 5:14 注3 |
この章で、「罪過」、「違犯」、「不従順」という言葉は、すべてアダムの堕落のことを言っています。それは、彼が命を捨てて死を選んだことです。アダムは、命としての神を表明している命の木を捨てて、死の源としてのサタンを象徴している知識の木を追い求めました(創2:8―9,17.3:1―7)。 |