出典 |
フットノート |
ローマ 5:14 注1 |
第5章から第8章で、死は何度も述べられており(12,14,17,21節.6:9,16,21,23.7:5,10,13,24.8:2,6,38)、命も繰り返し述べられています(10,17―18,21節.6:4,22―23.7:10.8:2,6,10―11,38)。これら二つのかぎの言葉は、第5章から第8章で、二つの対比する路線を形成します。それは命の路線と死の路線です。これは、人が神とサタンとの三者の関係、また命と死との三者の関係の、中心にいることを示しています。ですから、第5章から第8章は、聖書の核と呼ぶことができ、具体的、詳細に、聖書全体の主題を見せています。 |
ローマ 5:14 注4 |
アダムは古い団体の人(人類)のかしらでした。彼が行なったこと、彼に起こったことはすべて、全人類があずかるのです。このことで、彼はキリストの予表です。キリストは新しい団体の人(エペソ2:15―16)、召会のかしらです。彼が行なわれたこと、彼に起こったことはすべて、彼のからだ、召会(エペソ1:22―23)のすべての肢体があずかります。 |
ローマ 5:15 注1 |
わたしたちの贖い主キリストは、完全に神であり、また完全に人でもありました(参照,9:5)。恵みとそのすべての賜物は、キリストの人性の中で満ちあふれました。 |
ローマ 5:15 注2 |
恵みは満ちあふれ(17節)、増し加わる(ますます満ちあふれる―20節)だけでなく、支配します(21節)。生きている人だけが、支配することができます。 |
ローマ 5:16 注1 |
わたしたちが受けた義の賜物(17節)を言っています。これは、神がわたしたちに与えられた義が、賜物であることを示します。 |
ローマ 5:17 注1 |
あふれるばかりの恵みを受ける者たちは、命の中で支配することができます。なぜなら、命はあふれるばかりの恵みから流れ出るからです。 |
ローマ 5:17 注2 |
義の賜物は、裁きを消し去ります。裁きは罪から来ますが、義は恵みから来ます。義は常に恵みを伴い、また恵みの結果でもあります。主観的な義(4:25後半)は恵みから来ます(17,19節)。そして恵みは客観的な義(1―2節)から来ます。 |
ローマ 5:17 注4 |
この節と、10(10節)、18(18節)、21節(21節)、第6章4節(6:4)、第8章2(8:2)、6(8:6)、10節(8:10)の「命」は、神の永遠の、神聖な、非受造の命(ゾーエzoe)を言っています。それは、わたしたちの命としてのキリストご自身です(ヨハネ11:25.14:6.コロサイ3:4)。これは、わたしたちの肉体の命(ビオスbios―ルカ8:14)とも、魂の命(プシュケpsuche―マタイ16:25―26.ヨハネ12:25)とも異なります。この神の永遠の命は、わたしたちに与えられた神聖な恵みのおもな要素であり、この永遠の命の中で、わたしたちは支配することができるのです。 |
ローマ 5:17 注3 |
わたしたちが受けた命は、わたしたちを少しばかりの事柄から救うだけではなく、それはわたしたちを王として座に着かせ、すべての事柄を支配させます。これは、命の中で救われることよりもはるかに高いことです。わたしたちは客観的に義を受けていますが、さらに、絶えず満ちあふれる恵みを受ける必要があります。それは、わたしたちが命の中で、主観的に支配することができるためです。この支配することの意義が、第6章から第16章で説明されています。そこで述べられているすべての事柄は、わたしたちの努力の成果ではなく、わたしたちが満ちあふれる恵みを受けた結果です。 |
ローマ 5:18 注3 |
文字どおりには、へと至った。 |