出典 |
フットノート |
ローマ 6:5 注2 |
キリストの死の様は、4節(4節)で述べられたバプテスマです。キリストの復活の様は、4節(4節)で述べられた命の新しさです。 |
ローマ 6:5 注3 |
これは将来の客観的な復活ではなく、現在の成長の過程を言っています。わたしたちはバプテスマされる時、キリストの死の様の中で彼と共に成長しました。今や彼の死を通して、わたしたちは彼の復活の中へと成長していきます。キリストの死の要素が、彼の中でだけ見いだされたように、キリストの復活の要素も、キリストご自身の中でだけ見いだされます。彼ご自身が復活です(ヨハネ11:25)。正常なバプテスマを経験した後、キリストの復活の様の中で、わたしたちは続けて彼の中で、彼と共に成長していきます。これが、命の新しさの中を歩くことです。 |
ローマ 6:5 注2 |
キリストの死の様は、4節(4節)で述べられたバプテスマです。キリストの復活の様は、4節(4節)で述べられた命の新しさです。 |
ローマ 6:6 注1 |
ギリシャ語では、ここの「知る」は、外側の、客観的な知識を言っています。9節(9節)と16節(16節)の「知る」は、内側の、主観的な知覚を言っています。 |
ローマ 6:6 注2 |
わたしたちの魂の中の、天然の命を言います。古い人は、神によって創造され、罪のゆえに堕落した、わたしたちの存在そのものです。それはガラテヤ人への手紙第2章20節(ガラテヤ2:20)の「わたし」と同じです。それは魂そのものではなく、魂の命です。それは神によって絶望と勘定されたので、十字架に置かれ、キリストと共に釘づけられました。以前、わたしたちの魂は、独立した人として振る舞い、古い人をその命と人格としていました。今や古い人が十字架につけられたので、わたしたちの魂は、キリストの器官として振る舞うべきであり、わたしたちの霊の支配を受け、キリストをその命とすべきです。 |
ローマ 6:6 注3 |
ガラテヤ第5章24節(ガラテヤ5:24)のノート2を参照。 |
ローマ 6:6 注4 |
体には罪が内住し、罪によって占領され、腐敗させられ、所有され、利用され、奴隷とされたので、罪深い事柄を行ないます。この罪の体は、罪を犯すことではとても活発であり、力に満ちています。それは、「この死の体」(7:24)とは違います。この死の体は、神の事柄には弱くて無力です。罪の体は、罪を犯す人ではなく、罪を犯す道具です。古い人はこれを利用して、罪を犯すことによって自己を表現し、罪の体を肉とならせます。ですから、この節の「罪の体」と第8章3節(8:3)の「罪の肉」は、同じものを指しています。 |
ローマ 6:6 注5 |
あるいは、解雇された、失業した、活動しなくなった。古い人がキリストと共に十字架につけられたので、罪を犯す道具として利用されてきた体は、今やすることがなくなりました。それは解雇され、失業しています。こうして、わたしたちは罪から解放され(18―22節)、罪の束縛の下で、奴隷として罪に仕える必要はもはやないのです。 |
ローマ 6:7 注1 |
罪の性質とその力と痛み、そして罪深い行動とその歴史と裁きを言います。 |
ローマ 6:8 注1 |
これは再び、わたしたちがキリストの死と復活の中で、彼と有機的に結合されることを言っています。 |