出典 |
フットノート |
ローマ 6:8 注1 |
これは再び、わたしたちがキリストの死と復活の中で、彼と有機的に結合されることを言っています。 |
ローマ 6:9 注1 |
キリストは彼の復活の中で、腐敗と死を超越しておられます。わたしたちはこの復活の中で彼と一つですから、わたしたちも腐敗と死を超越しています。 |
ローマ 6:11 注1 |
あるいは、考えなさい。認めることは技術ではなく、この章に啓示されている事実を見ることによって生じた、自然に信じ、自然に考えることです。わたしたちはその事実を見て信じ、それを承認し、それにしたがって、罪に対して死んでおり、神に対して生きていることを、認めなければなりません。 しかしながら、認めることが死の原因となるのではなく、またそれだけで、わたしたちの内側にキリストの死を執行することもできません。第8章で啓示されているその霊を享受してはじめて、この章で啓示されたキリストのすべてを含む有効な死、彼の復活とその力を経験するのです。この章は、わたしたちのためにキリストによって達成された、客観的事実を見せています。これらは、わたしたちが信じることと認めることを必要とします。第8章は、その霊の主観的働きを見せています。すなわち、キリストによって達成された事実を、わたしたちの実際的な経験の中で実際とならせるのです。これらは、わたしたちがキリストと交わり、キリストを享受することを必要とします。この章で語られている事実は、第8章に啓示されたその霊の中ではじめて、わたしたちの経験となることができます。 |
ローマ 6:12 注1 |
これは罪を拒絶し、神の霊と協力することです。 |
ローマ 6:12 注2 |
文字どおりには、その(「体」のことを言っています)。 |
ローマ 6:13 注1 |
わたしたち自身と、わたしたちの肢体を神にささげることは、わたしたちがキリストと共に十字架につけられ、復活させられた事実を見ること、そしてこれらの事実にしたがって、わたしたち自身を、死んで生きている者と認めたことの結果です。 |
ローマ 6:13 注2 |
あるいは、器具。わたしたちの肢体は、単に器具だけではなく、義の武器でもあって、わたしたちはこれをもって、義と不義との間の戦いを戦うのです。 |
ローマ 6:14 注1 |
ここの罪は人格化されています。それは、わたしたちの体の情欲を通して(12節)、わたしたちを支配します。 |
ローマ 6:14 注2 |
わたしたちが律法の下にではなく、恵みの下にいるのは、罪がわたしたちを支配することのできない理由です。これはわたしたちに、罪を拒絶する地位を与えます。罪はもはやわたしたちに、要求する権利はありません。かえってわたしたちは、罪とその力を拒絶する全き権利を持っています。罪を拒絶し、復活されたキリストの側につくことによって、わたしたちは自分自身と自分の肢体を、奴隷として義にささげます。それは、神聖な命がわたしたちの内側で働き、地位的にだけでなく、また性質的にも、神の聖なる性質をもって、わたしたちを聖別するためです。 |
ローマ 6:14 注3 |
これは、召会の堕落の時代にある者たちがそうであったように(ユダ1:4節)、わたしたちを不法の者にさせることはありません。この節で言われている律法は、モーセによって与えられた律法です。それは、新しい契約における内なる法則に置き換えられました(ヘブル10:16)。第5章と第6章は、わたしたちが今や恵みの下にいることを説明しており、第7章と第8章は、わたしたちが律法の下にいないことがどうして可能であるかを説明しています。 |