出典 |
フットノート |
ローマ 7:24 注3 |
罪が律法の武器によってもたらした死、わたしたちが打ち破られた死、律法を守って神を喜ばせようとしたのに、肢体の中の罪の法則によってとりこにした死。これが、この時にわたしたちの肉の中で働いている死です。 |
ローマ 7:24 注2 |
わたしたちの堕落した体は、第6章6節(6:6)では「罪の体」と呼ばれており、ここでは「この死の体」と言われています。罪の体は、神に逆らって罪を犯すことでは強いです。しかしこの死の体は、神を喜ばせる事を行なうことでは弱いです。罪は堕落した体を力づけて、罪を犯させます。しかし死は、堕落した体を完全に弱め、無能にして、神の戒めを守ることができないようにします。 |
ローマ 7:25 注1 |
「わたし自身、思いでは」という句は、自己を代表する思いが、独立して善を行なおうとしていることを示します。思いの中の善の法則は(23節)、わたしたちに善を行なおうとさせますが、その思いは敗北するでしょう。なぜなら、わたしたちの肢体の中にある罪の法則は、その独立している思いよりも強いからです。 |
ローマ 7:25 注2 |
文字どおりには、奴隷として仕える。 |
ローマ 7:25 注3 |
「罪の法則」、「罪」、「悪」は同義語であって、人の堕落した体の中に住んでいるサタンです。 |
ローマ 8:1 注1 |
「そこで今や、キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません」という言葉は、第7章で描写されていることが、キリストの中にいない人の経験であるという強い証拠です。 |
ローマ 8:1 注3 |
この章で、「キリストの中にある」という句は、第6章にあるように、キリストにあるわたしたちの立場、地位だけでなく、わたしたちの再生された霊の中での日ごとの歩みの実際をも言っています。ですから、この章は、条件や状態としてのキリストにあることを語っているのです。これは、第5章10節(5:10)にある彼の命の中で救われることと一致します。 |
ローマ 8:1 注2 |
第1章18節から第3章20節で暗示され、第5章16節(5:16)と18節(5:18)で述べられている罪定めは、神の義なる律法の下での客観的なものであり、わたしたちの外側の罪の結果です。ここで述べられている罪定めは、わたしたちの良心の中の主観的なものです。それはまた、第7章17節から18節(7:17―18)、20節から24節(20―24節)で記述されているように、内住している罪の悪の法則によって、わたしたちが内側で敗北させられている結果でもあります。十字架につけられたキリストの血は、客観的な罪定めからの解放です(3:25)。命の霊、すなわち手順を経て命を与える霊となり、わたしたちの霊の中におられるキリストは、主観的な罪定めからの解放です。 |
ローマ 8:2 注3 |
この章に啓示されている霊の命は、四重です。第一に、この命はその霊の中の神聖な命です(2節)。第二に、それは再生を通して、わたしたちの霊の中で命となります(10節)。次に、それはわたしたちの霊から思いに浸透し、思いが属する魂を造り変え、魂の中で命となります(6節)。最終的に、それはわたしたちの体に浸透し、体の中で命となります(11節)。究極的結果は、わたしたちの体の変貌(ピリピ3:21)、すなわち体の贖いです(23節)。 |
ローマ 8:2 注2 |
ここの法則、その霊、命は、法則、罪、死と相対します。二つの法則は互いに相対し、その霊と罪は相対し、命と死は相対します。第5章で、恵み(わたしたちの中に化身された神)と罪(わたしたちの中に化身したサタン)は相対します(5:21)。第8章で、その霊(わたしたちの中に生きておられる神)と罪は相対します。ですから、第5章の恵みは、第8章のその霊であり、わたしたちの中で恵みとして化身し、生き、活動しておられる神です。 今までの章で、命が何度も述べられています(1:17.2:7.5:10,17―18,21.6:4,22―23)。この章では、「命の霊」という言葉で、命とその霊が結ばれています。これは、これまでの章における命に関するあらゆる事が、この章におけるその霊に含まれていることを示します。命はその霊に属し、その霊は命からです。これら二つは、実は一つです(ヨハネ6:63)。神聖な、永遠の、非受造の命を経験し享受する道は、この命の霊によってです。 |