出典 |
フットノート |
ローマ 8:2 注1 |
命の霊の法則が、この章の主題です。この節で述べられているのは、この法則の働きとだけ関係があるその霊と命です。命はその霊の内容と流れ出たものであり、その霊は三一の神の究極的な完成の現れです。この三一の神は、受肉、十字架、復活の手順を経過して、内住する、命を与える霊となられました。彼は、キリストにあるすべての信者の命です。罪の法則は、わたしたちの堕落した体の肢体に住むサタンからのものです(7:23,17)。わたしたちを罪の法則から解放したのは、この命の霊の法則です。わたしたちの中で働いて、肉の中にある罪の法則の働きからわたしたちを救い出し、わたしたちに神を知らせ、神を得させ、それによって神を生かし出すことができるようにさせるのは、神でもその霊でもなく、この法則です。この命の霊の法則は、命の霊の自然な力です。この法則の要求を満たす条件の下で、その自然の法則は、自動的に働きます(参照,4節のノート2)。 サタンも神も、わたしたちの中に入って、わたしたちの中に住んだ後、外側の客観的な活動によってではなく、内側の主観的な法則によって働きます。命の霊の法則の働きは、わたしたちの霊の中の、手順を経た三一の神の働きです。それはまた、わたしたちの中での、命における三一の神の働きでもあります。 |
ローマ 8:2 注6 |
罪の法則は、人の中で自然に起こる罪を犯す力であり、人を罪の奴隷とします(ヨハネ8:34)。ですから、人には助けがなく、罪によってコントロールされ、操られて、自分の意志に反して多くの事を行ないます。死の法則は、人を弱くし、しなびたものとし、老死させる天然の力であり、人の中に住んで、人のあらゆる部分を衰弱させ、死なせます。一方で、死は人の能力を失わせ、もう一方で、人の感覚を失わせます。そして人が善を行なおうとする時、無力にし、罪を犯す時、無感覚にします。 |
ローマ 8:2 注5 |
幾つかの古代の写本は、「あなたを」となっています。 |
ローマ 8:2 注4 |
命の霊の法則として、わたしたちの霊に内住している、手順を経た三一の神の主要な機能は、罪と死の法則として、わたしたちの堕落した性質の中に住むサタンから、わたしたちを完全に解放することです(7:23―25)。この解放は、わたしたちの主観的な義認のためだけでなく、それにもまして、性質上の聖別のためです。 |
ローマ 8:3 注1 |
肉の中には、善なるものは住んでいません(7:18)。罪だけが、肉の中に住んでいます(7:17)。さらに、肉は死に属します(7:24)。ですから、人は肉による律法の行ないによっては、神の御前に義とされることはできません(3:20)。そのように弱くて無能な肉のゆえに、律法にはなし得なかったものがあるのです。 |
ローマ 8:3 注2 |
一方で、人の外側の神の律法は、文字の律法であって、死んでおり、人に命の力を供給して律法の要求に応じさせることはできません。もう一方で、人の体はサタンによって腐敗させられて、死の肉となっており、律法を守ることができません。これら二つの要因のゆえに、「律法は・・・・なし得なかった」のです。すなわち律法は、人がそれを守って、神を喜ばせることのできないものです。 |
ローマ 8:3 注3 |
肉は罪に属します。しかし神の御子は肉になられました(ヨハネ1:14.ヘブル2:14.Iテモテ3:16)。ところが彼は、ただ肉の様だけであって、肉の罪を持たれませんでした(IIコリント5:21.ヘブル4:15)。これは、罪深いイスラエル人のために、モーセが上げた青銅の蛇で予表されます(民21:9.ヨハネ3:14)。青銅の蛇は実際の蛇の形、様をしていましたが、毒を持っていませんでした。毒されたイスラエル人に対する神の裁きを担い、彼らを毒した蛇を対処したのは、そのような青銅の蛇です。 キリストは、肉の罪を持たれませんでしたが、肉において十字架につけられました(コロサイ1:22.Iペテロ3:18)。こうして、彼は十字架の上で、肉と関係のあるサタンと、サタンに掛かっているこの世を裁き(ヨハネ12:31.16:11)、それによってサタンを滅ぼされました(ヘブル2:14)。同時に、肉におけるキリストの十字架を通して、サタンが人の肉の中にもたらした罪を、神は罪定めされました。その結果、わたしたちは肉にしたがってではなく、霊にしたがって歩くことができるのです。それは律法の義の要求が、わたしたちにおいて満たされるためです(4節)。 |
ローマ 8:4 注3 |
この章と、ガラテヤ人への手紙第5章と、新約の他の箇所で使われている「霊」という言葉は、この章の9節(9節)と16節(16節)でのように、神の聖霊であるか、それともわたしたちの再生された人の霊であるかを、はっきりと示しているのでない限り、区別するのは困難です。新約聖書の用法によれば、この節で使われている霊は、三一の神の究極的完成であるその霊が内住し、それと混ざり合っている、わたしたちの再生された人の霊を示しています(9節)。これは、コリント人への第一の手紙第6章17節(Iコリント6:17)と一致します。すなわち、「主(彼はその霊です―IIコリント3:17.Iコリント15:45)に結合される者は主と一つ霊」、一つの混ざり合った霊です。 |
ローマ 8:4 注2 |
ギリシャ語は、わたしたちの生活における一般的な行ないを意味します(参照,ガラテヤ5:16のノート1)。命の霊の法則(わたしたちの中にすでに設置されています)が働くために、わたしたちが満たさなければならない条件は、(1)霊にしたがって歩く(4節).(2)その霊の事柄を思う―思いを霊に付ける(5―6節).(3)その霊によって体の行ないを死に渡す(13節).(4)神の子たちとして、その霊に導かれる(14節).(5)子たる身分の霊の中で父を呼ぶ(15節).(6)わたしたちが神の子供たちであることを証しする(16節).(7)全き子たる身分、すなわち、わたしたちの体の贖いを求めてうめく(23節)ことです。 |
ローマ 8:4 注1 |
これは、わたしたちの外側の努力によって、意識的に守られるのではなく、命の霊の内なる働きによって、自然に、無意識的に、わたしたちにおいて満たされることです。命の霊はキリストの霊であり、キリストは神の律法に対応します。わたしたちが彼にしたがって歩く時、わたしたちの内にあるこの霊は、律法の義の要求をすべて、わたしたちにおいて自然に満たします。 |