出典 |
フットノート |
ローマ 9:15 注1 |
これは神の主権的権威であり、これによって、神はご自身の願いどおりに、人をあわれむことができるのです。 |
ローマ 9:15 注2 |
あわれみはおもに、人の悲惨な状態に反応して取られる行動を言います。ですから、神が人にあわれみを示されるのは、外側のことです。ところが、慈しみはおもに、うめきと涙によって表現される内側の感覚を言います。ですから、神が人を慈しまれるのは、内側のことです。こういうわけで、慈しみはあわれみよりも深いのです。 |
ローマ 9:15 注1 |
これは神の主権的権威であり、これによって、神はご自身の願いどおりに、人をあわれむことができるのです。 |
ローマ 9:15 注2 |
あわれみはおもに、人の悲惨な状態に反応して取られる行動を言います。ですから、神が人にあわれみを示されるのは、外側のことです。ところが、慈しみはおもに、うめきと涙によって表現される内側の感覚を言います。ですから、神が人を慈しまれるのは、内側のことです。こういうわけで、慈しみはあわれみよりも深いのです。 |
ローマ 9:21 注1 |
これは、神がわたしたちを選ばれたのは、わたしたちが神を入れる尊い器となるためであることを示しています。神は人を、ご自身を入れる器として創造されました。次に神は多くの器の中から、わたしたちを、この尊い神を入れるために選び、わたしたちを尊い器とされました。最後に神は、器であるわたしたちに、神の栄光を知らせて、わたしたちを神の栄光の器とされます(23節)。これはすべて、神のあわれみからであり、神のあわれみによります。それは、わたしたちの努力によって得ることはできません。ですから、わたしたちは神を礼拝しなければなりません。このあわれみのゆえに、神を礼拝しなければなりません! |
ローマ 9:23 注1 |
これは、来たるべき王国の出現における栄光です。わたしたち、神の子たちは現されて、王国の中でこの栄光にあずかります(8:17―23)。 |
ローマ 10:3 注1 |
イスラエル人は、律法を守ろうとすることによって、彼ら自身の義を立てることを求め、そして神の義、すなわちキリストご自身に服従しませんでした。これは神に対する侮辱であり、神の救いの道を失わせます。 |
ローマ 10:4 注1 |
キリストは、律法を成就するために来られました(マタイ5:17)。それは、彼が律法を終わらせ、それに置き換わるためです(8:3―4)。こうして、彼を信じる者はすべて、神の義、すなわちキリストご自身を受けるのです。 |
ローマ 10:6 注1 |
これはキリストの受肉のことを言っています。 |
ローマ 10:7 注1 |
ギリシャ語は、ルカによる福音書第8章31節(ルカ8:31)では、悪鬼どもの住みかを言います。啓示録第9章1(啓9:1)、2(啓9:2)、11節(啓9:11)では、いなごが出てくる場所を指し、その王はアポルオン(反キリスト)です。啓示録第11章7節(啓11:7)と第17章8節(啓17:8)では、獣、反キリストが上ってくる場所を意味します。啓示録第20章1節(啓20:1)と3節(啓20:3)では、サタンが投げ込まれ、千年期の間、閉じ込められる場所です。旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳は、この言葉を創世記第1章2節(創1:2)の「深淵」という言葉に使っています。この節では、キリストが彼の死後、復活の前に訪れた場所を指しています。その場所は、使徒行伝第2章24節(使徒2:24)と27節(使徒2:27)によれば、ハデスです。なぜなら、使徒行伝第2章24節(使徒2:24)と27節(使徒2:27)は、キリストが彼の死後、ハデスへ行き、そこから復活の中で起き上がられたことを啓示しているからです。ですから、聖書の用法によれば、「アビス」は、いつも死とサタンの暗やみの力の領域を言い、それは地のさらに低い所であって(エペソ4:9)、そこへキリストは彼の死後、下っていき、それを征服して、復活の中でそこから上がられたのです。 |