出典 |
フットノート |
1コリ 1:1 注3 |
ここのソステネはおそらく、使徒行伝第18章17節(使徒18:17)のソステネではなかったでしょう。なぜなら、この書簡は使徒がコリントを去った後、間もなく、エペソで書かれたものであり(16:8)、もう一人のソステネは、パウロがコリントで迫害を受けた時に、そこの会堂司であったからです。このソステネは、主にある兄弟として、使徒が巡回して務めを行なっていた時に、一行に加わったに違いありません。ここで彼について述べていることは、パウロの使徒職を強め、からだの原則を示しています。 |
1コリ 1:2 注2 |
召会は、宇宙的な神で構成されています。しかし地上では、多くの地方に存在しました。コリントはその一つでした。召会は性質において、神の中にあるがゆえに、宇宙的です。しかし実行では、召会は一定の場所にあるがゆえに、地方的です。ですから、召会には二つの面、宇宙的な面と地方的な面があります。宇宙的な面がなければ、召会には内容がありません。地方的な面がなければ、召会は表現と実行を持つことは不可能です。ですから、新約は、召会の地方的な面をも強調しているのです(使徒8:1.13:1.啓1:11等)。 |
1コリ 1:2 注1 |
神の召会! ケパの、アポロの、パウロの、あるいはどんな実行や教理の召会でもなく、神の召会です。コリントに在る召会には、分裂、罪、混乱、賜物の乱用、異端的な教えがあったにもかかわらず、使徒はなおもそれを「神の召会」と呼びました。なぜなら、集められた信者たちを神の召会とする神聖で霊的な本質が、確かにそこにあったからです。使徒によるそのような霊的な呼び名は、彼が霊的な視力で、キリストにある召会を見ていたことに基づいていました。そのような簡単な呼び名だけが、実行と教理におけるあらゆる分裂と混乱を取り除くはずでした。 |
1コリ 1:2 注3 |
「神の召会へ」 は、「キリスト・イエスの中で聖別され・・・・た聖徒たちへ」と等しいです。これは、召会が聖徒たちの構成体であり、聖徒たちは召会の構成要素であることを強く示しています。両者を別々の実体と考えるべきではありません。わたしたちは、個人的には聖徒ですが、団体的には召会です。 |
1コリ 1:2 注5 |
「キリストの中で」とは、「キリストの要素と範囲の中で」を意味します。わたしたちがキリストを信じた時、すなわち、彼にあるわたしたちの信仰を通して、彼との有機的結合へともたらされた時、キリストは、わたしたちを神へと分離し、神へと聖とした要素と領域です。 |
1コリ 1:2 注4 |
すなわち、聖とされた、神の目的を成就するために神へと分離された(参照、ローマ1:2のノート3)。 |
1コリ 1:2 注6 |
キリストにある信者は、召された聖徒であって、聖徒「となるために」召されたのではありません。これは地位上の事柄であり、地位上の聖別であって、性質上の聖別を目的としています(参照、ローマ6:19のノート2)。 |
1コリ 1:2 注7 |
「それと共に」であって、「そして」ではありません。これは、次のことを示しています。(1)一つの地方召会は、コリントに在る召会のように、その地方にいる信者だけで構成されるのであって、あらゆる場所にいるすべての信者で構成されるのではありません。(2)この書簡は、コリントに在る一つの召会の信者のためだけでなく、あらゆる場所にいるすべての信者のためでもあります。この書簡は、どの場所と時であれ、すべての信者のためです。 |
1コリ 1:2 注8 |
主の御名を呼び求めるとは、彼を信じることを暗示します(ローマ10:14)。すべて主にある信者は、主の御名を呼び求める人であるべきです(使徒9:14、21.22:16)。わたしたちは呼ぶ(call)ように召され(called)ました。すなわち、主イエスの御名を呼び求めるよう、神に召されました。 |
1コリ 1:2 注9 |
すべてを含む方であるキリストは、すべての信者のものです。彼は神がわたしたちに与えられたわたしたちの分です(コロサイ1:12)。使徒はこの特別な句をこの節の終わりに付け加えて、どのような場所や情況にあっても、キリストはすべての信者の唯一の中心であるという重要な事実を強調しました。本書における使徒の意図は、コリントの聖徒たちの間にある諸問題を解決することです。すべての問題に対する、特に分裂の問題に対する唯一の解決は、すべてを含むキリストです。わたしたちはみな彼の交わりへと召され、彼にあずかるようにされたのです(9節)。すべての信者は、彼に焦点づけられるべきであって、どんな賜物のある人にも、どんな強調しすぎた教理にも、どんな特別な実行にも、それてはなりません。 |