出典 |
フットノート |
1コリ 1:9 注2 |
これは、神の御子、イエス・キリストとの結合の交わりにあずかること、彼を享受する交わりにあずかることです。神がわたしたちをそのような交わりに召されたのは、わたしたちがキリストを、神が与えられたわたしたちの分として享受するためです。この言葉は、キリストは彼らのもの、またわたしたちのもの(2節)という言葉のように、キリストが信者たちの唯一の中心であって、彼らの間の諸問題、特に分裂の問題の解決であるという重要な事実を、再び強調しています。 本書は、わたしたちすべてが召し入れられたキリストこそ、すべてを含む方であることを啓示しています。彼は、神がわたしたちに与えられた分け前(2節)、神の力、神の知恵であり、わたしたちに義、聖別、贖いとなられました(24、30節)。彼はわたしたちの栄光化(2:7.ローマ8:30)のための栄光の主です(2:8)。彼は神の深み(深い事柄)です(2:10)。彼は神の建造の唯一の土台です(3:11)。彼はわたしたちの過越(5:7)、種なしパン(5:8)、霊の食物、霊の飲み物、霊の岩です(10:3―4)。彼はかしらであり(11:3)、からだです(12:12)。彼は初穂(15:20、23)、第二の人(15:47)、最後のアダムです(15:45)。彼はそのような方として、命を与える霊となられました(15:45)。それは、わたしたちが彼を内側に受け入れて、わたしたちのすべてとするためです。神は、少なくとも二十項目の豊富を持つこのすべてを含む方を、わたしたちの分け前として、わたしたちの享受のために与えてくださいました。わたしたちは彼以外のいかなる人、物、事にでもなく、ただ彼にだけ集中すべきです。わたしたちは彼に焦点を合わせ、彼を神が定められたわたしたちの唯一の中心とすべきです。それは、信者たちの間のあらゆる問題が解決されるためです。わたしたちはそのような方の交わりへと、神によって召されたのです。神の御子のこの交わりは、使徒たちが彼のからだ、すなわち召会の中で信者たちと分け合った交わり(使徒2:42.Iヨハネ1:3)となりました。そしてそれは、わたしたちが主の食卓で、彼の血と体にあずかって享受する交わりであるはずです(10:16、21)。そのような交わりは、その霊によって成されるもので(IIコリント13:14)、唯一であるに違いありません。なぜなら、彼は唯一であるからです。この交わりは、彼の唯一のからだの肢体の間の、どんな分裂をも許しません。 |
1コリ 1:10 注1 |
この節から、使徒はコリント人の間の分裂を取り扱い始めます。まず彼は、わたしたちの主の御名を通して、彼らに懇願しています。この御名は、すべての名の上にある名であり(ピリピ2:9)、すべての信者の間で唯一の名であるべきです。ところが、分裂的なコリント人は、パウロ、アポロ、ケパの名を、キリストの御名と同列にしました。それは、ペテロが変貌の山で、モーセとエリヤをキリストと同列にしたのと同じです(マタイ17:1―8)。主にある一を守るために、そして分裂を避けるために、わたしたちはこの最高の名以外のすべての名を落とすことによって、わたしたちの主の唯一の御名を引き上げ、あがめる必要があります。 |
1コリ 1:10 注2 |
これは、11節から12節(11―12節)で使徒が罪定めしたように、彼らが争う時に異なったことを語っているからです。 |
1コリ 1:10 注3 |
本書で使徒は、コリントの信者たちの間にある十一の問題を取り扱っています。第一は分裂の問題です。分裂はほとんどの場合、主導的な問題であって、信者たちの間に他のあらゆる問題を持ち込みます。それは信者たちの間の諸問題の根源であると考えられます。ですから、コリントの召会にあるすべての問題を取り扱う時、使徒の斧はまず根に、すなわち、彼らの間の分裂に向けられます。信者たちが神の召しにふさわしい歩みをすることでの第一の美徳は、キリストのからだの中の、その霊の一を守ることです(エペソ4:1―6)。 |
1コリ 1:10 注5 |
あるいは、判断。 |
1コリ 1:10 注4 |
ギリシャ語では、マタイによる福音書第4章21節(マタイ4:21)で「繕っている」と訳されているのと同じ言葉です。それは、「修理する、回復する、調整する、修復する、破損したものを徹底的に完全にする、完全に結合する」を意味します。コリントの信者たち全体は分けられ、壊されました。彼らは繕われて、完全に結合される必要がありました。それは、彼らが調和の中で同じ思い、同じ意見を持ち、同じ事を語る、すなわち、キリストと彼の十字架を語るためでした(17―18、22―24節.2:2)。 |
1コリ 1:11 注1 |
女性の名前。それゆえ、主にある姉妹。 |
1コリ 1:12 注1 |
これはまさしく、「わたしはルター派である」、「わたしはウエスレー派である」、「わたしは長老派である」、「わたしは聖公会である」、「わたしはバプテスト派である」、などと言っているようなものです。すべてこのように名づけることは、罪定めされ、拒絶されるべきです。ただキリストをすべての信者の間で唯一の中心とすることによってのみ、それらの名前は消し去られ、終わらせられます。 |
1コリ 1:12 注2 |
「わたしはキリストにつく」と言って、使徒たちと使徒たちの教えを拒絶したり、他の信者たちを排斥したりするのであれば、「わたしはこれにつく、わたしはあれにつく」と言うのと同じように、分裂です。 |
1コリ 1:13 注1 |
キリストは唯一であって、分けられません。もしすべての信者が、この唯一で分けられないキリストを唯一の中心とするのでしたら、すべての分裂はなくなってしまいます。 |