出典 |
フットノート |
1コリ 1:29 注1 |
これは、神が特別な愛顧をもってわたしたちを選ばれた理由を明らかにしています。それは、いかなる肉も、いかなる人も、神の御前で何の誇りも、何の栄光も持たないためです。 |
1コリ 1:30 注1 |
わたしたち信者が新創造として、キリストの中にあり、キリストの中で持つものは、すべて神からであって、わたしたち自身からではありません。わたしたちをアダムからキリストへと移して、キリストの中に置かれたのは神です。キリストをわたしたちに知恵とされたのは神です。 |
1コリ 1:30 注2 |
キリストは、神の救いにおける三つの重要なものとして、神からわたしたちに知恵となられました。(1)義(わたしたちの過去のための)、それによって、わたしたちは神に義とされました。それは、わたしたちが霊において再生され、神聖な命を得るためです(ローマ5:18).(2)聖(わたしたちの現在のための)、それによって、わたしたちは魂において聖別されていきます。すなわち、わたしたちの思い、感情、意志において、彼の神聖な命によって造り変えられていきます(ローマ6:19、22).(3)贖い(わたしたちの将来のための)、すなわち、わたしたちの体の贖いです(ローマ8:23)。それによって、わたしたちは体において、彼の神聖な命によって変貌させられ、彼の栄光の様を持つようになります(ピリピ3:21)。わたしたちがこのような完全無欠の救いにあずかり、わたしたちの全存在―霊、魂、体―をキリストと有機的に一つにし、キリストをわたしたちのすべてとさせるのは、神からです。これは完全に神によるのであって、わたしたち自身によるのではありません。それは、わたしたちが自分自身の中でではなく、神の中で誇り、神に栄光を帰すためです。 |
1コリ 2:1 注1 |
あるいは、優秀。パウロがコリントに来たのは、神の奥義を告げ知らせることで、すぐれた、優秀な言葉や、哲学的知恵を見せるためではありませんでした。 |
1コリ 2:1 注2 |
幾つかの権威ある古文書は、証しとなっています。使徒が証ししたものは、神の奥義、すなわち、神の化身としてのキリストと、キリストの表現としての召会でした(ローマ16:25―26.コロサイ1:26―27.2:2.4:3.エペソ3:4―6、9)。 |
1コリ 2:2 注2 |
「イエス・キリスト」は、主のパースンを示します。「十字架につけられたこの方」は、主の生活、行動、働き、方法の模範を語っており、主のへりくだりと屈辱を示しています。自分の知恵を高く上げたギリシャ人の誇りを覆すために、パウロはここで、主の栄光の復活(ルカ24:26)や、引き上げられた昇天(使徒2:33、36)のことを言いませんでした。 |
1コリ 2:2 注2 |
「イエス・キリスト」は、主のパースンを示します。「十字架につけられたこの方」は、主の生活、行動、働き、方法の模範を語っており、主のへりくだりと屈辱を示しています。自分の知恵を高く上げたギリシャ人の誇りを覆すために、パウロはここで、主の栄光の復活(ルカ24:26)や、引き上げられた昇天(使徒2:33、36)のことを言いませんでした。 |
1コリ 2:2 注1 |
十字架につけられたキリストが、使徒の務めの唯一の主題、中心、内容、実質でした。このことのゆえに、雄弁を高く上げ、知恵を崇拝するギリシャ人に、神の証しの言葉を供給しに行った時、彼はすべてを含むキリスト、しかも十字架につけられたこの方のほかは、何も知るまいと決心したのです。何という決心でしょう! これは、わたしたちすべての模範であるべきです。 |
1コリ 2:3 注1 |
これは、使徒の肉体の弱さを言っています。それは福音のために受けた迫害での、肉体の苦難によるものであったのでしょう。ギリシャ人は自分たちの哲学において、精神的に強くなることを求めただけでなく、肉体の訓練において、肉体的にも強くなることを求めました。しかし彼は彼らの間で、自分を肉体的に強い者であるとは誇示しませんでした。 |
1コリ 2:3 注2 |
恐れは内側の感覚、おののきは外側の現れです。使徒は、知恵を追い求めるギリシャ人に対する彼の務めにおいて、キリストを失うことを内側で恐れました。また彼らの知恵に対する熱烈な切望に影響されないようにと、外側ではおののいていました。そのような恐れとおののきによって、彼は天的幻にしたがって、神に任命された自分の務めの中で、どのような脱線をも避け、忠実に、しっかりと立ちました。宗教的なユダヤ人は、彼らの伝統的な宗教を誇っていました。また哲学的なギリシャ人は、彼らのこの世的な知恵で高ぶっていました。使徒はキリストを彼ら両方に供給する時、恐れ、ひどくおののいていました。彼と彼らとの間の、何という対比でしょう! |