出典 |
フットノート |
1コリ 6:11 注1 |
ここでの洗うこと、聖別すること、義とすることは、血を通しての客観的なもの(Iヨハネ1:7.ヘブル10:29.ローマ3:24―25)ではありません。それらは主観的な再生の洗い(テトス3:5)、主観的なその霊による聖別(ローマ15:16)、この節の主観的なその霊の中での義認です。神の救いのこれらすべての項目は、主イエス・キリストの御名の中で(すなわち、主のパースンの中で、信仰を通しての主との有機的結合の中で)、また神の霊の中で(すなわち、聖霊の力と実際の中で)、わたしたちに達成されました。第一に、わたしたちは罪深い事柄から洗われました。第二に、聖別され、神へと分離され、神によって造り変えられました。第三に、義とされ、神に受け入れられました。 |
1コリ 6:11 注1 |
ここでの洗うこと、聖別すること、義とすることは、血を通しての客観的なもの(Iヨハネ1:7.ヘブル10:29.ローマ3:24―25)ではありません。それらは主観的な再生の洗い(テトス3:5)、主観的なその霊による聖別(ローマ15:16)、この節の主観的なその霊の中での義認です。神の救いのこれらすべての項目は、主イエス・キリストの御名の中で(すなわち、主のパースンの中で、信仰を通しての主との有機的結合の中で)、また神の霊の中で(すなわち、聖霊の力と実際の中で)、わたしたちに達成されました。第一に、わたしたちは罪深い事柄から洗われました。第二に、聖別され、神へと分離され、神によって造り変えられました。第三に、義とされ、神に受け入れられました。 |
1コリ 6:11 注1 |
ここでの洗うこと、聖別すること、義とすることは、血を通しての客観的なもの(Iヨハネ1:7.ヘブル10:29.ローマ3:24―25)ではありません。それらは主観的な再生の洗い(テトス3:5)、主観的なその霊による聖別(ローマ15:16)、この節の主観的なその霊の中での義認です。神の救いのこれらすべての項目は、主イエス・キリストの御名の中で(すなわち、主のパースンの中で、信仰を通しての主との有機的結合の中で)、また神の霊の中で(すなわち、聖霊の力と実際の中で)、わたしたちに達成されました。第一に、わたしたちは罪深い事柄から洗われました。第二に、聖別され、神へと分離され、神によって造り変えられました。第三に、義とされ、神に受け入れられました。 |
1コリ 6:12 注1 |
この書簡が取り扱っている四番目の事柄は、食物と体における自由の乱用です(12―20節)。食物は人の生存のためであり、体が性を要求することは、人が繁殖するためです。どちらも必要なものであり、神が定められたものです。人にはそれらを用いる権利があります。しかし、人はそれらを乱用すべきではなく、その力に支配されて、コントロールされたり、奴隷にされたりすべきではありません。食物の乱用、例えば、偶像に供えられた物を食べることなどは、弱い兄弟をつまずかせます(8:9―13.10:28―30、32)。暴飲暴食は、わたしたちの体を損ないます。食物も腹も過ぎ去ります。神は両方とも無にもたらされます。性の乱用は淫行です。それは神によって罪定めされるだけでなく、主のためであるわたしたちの体を破壊します(18節)。 |
1コリ 6:12 注2 |
文字どおりには、わたしの(それをする選択の)権威の下にある。それゆえ、許可されている、容認されている、合法的である。 |
1コリ 6:12 注3 |
有利な(単に都合がよいだけでない)、良い、価値のある。 |
1コリ 6:12 注2 |
文字どおりには、わたしの(それをする選択の)権威の下にある。それゆえ、許可されている、容認されている、合法的である。 |
1コリ 6:12 注4 |
文字どおりには、権威の下に置かれる。これは、すべての事がパウロの権威の下にあったが、彼はいかなる権威の下にもなかったことを意味します。すべての事は彼に許可され、容認されて、合法的です。しかし彼は、支配され(奴隷とされ)たり、どのような権威、統制の下にも置かれたりはしません。12節(12節)は、続く区分(6:13―11:1)で、使徒が幾つかの問題を取り扱う基準となった格言と考えられます。 |
1コリ 6:13 注1 |
食物と腹は体の生存のためです。それら自身には何の意味もありません。神はそれらを無にもたらされるでしょう。 |
1コリ 6:13 注2 |
文字どおりには、そのものとそれらのもの。腹と食物(複数)を指します。 |