出典 |
フットノート |
1コリ 7:8 注1 |
これは、初期の務めにおける使徒の願いと意見でした(7、25、40節)。その後、彼は実際の結果を見て、若い未亡人に結婚することを命じました(Iテモテ5:11―15と14節のノート1)。 |
1コリ 7:9 注1 |
あるいは、節制。同じギリシャ語が、第9章25節(9:25)では、競走する者が準備の期間中、肉欲にふけるのを自制することについて使われています。 |
1コリ 7:10 注1 |
神のために語る(預言する)という旧約の原則は、「主はこう言われる」(イザヤ10:24.50:1.エレミヤ2:2.エゼキエル2:4)です。ところが、新約の受肉の原則は、「わたし(語る者)は命じます」です。語る者と主は一つです。ですから、パウロも「命じるのはわたしではなく主です」と言うのです。「命じる」のギリシャ語は、「課する」、あるいは「命令する」とも訳すことができます。 |
1コリ 7:10 注2 |
これは二つの事を示しています。(1)使徒は主と一です。ですから、彼が命じたことは、主が命じられたことです.(2)彼の命令は主の命令です。パウロがここで命じているのは、マタイによる福音書第5章31節から32節(マタイ5:31―32)と第19章3節から9節(マタイ19:3―9)で、主が命じられたことです。離婚は絶対に主が許しておられません。 |
1コリ 7:11 注1 |
別居していようと離婚していようと、人は再婚しないで、和解を期待し、待ち望むべきです。 |
1コリ 7:12 注1 |
これは再び、新約の受肉の原則に基づいています。彼は続いて、「主ではなく、わたしです」と言いましたが、続く節で彼が言ったことは何であれ、新約の神聖な啓示の一部分です。それは主にある彼の意見であって、主の命令ではありませんが、やはり主の思いを表現しています。 |
1コリ 7:14 注1 |
聖別されるとは聖とされること、神の目的のために神へと分離されることです。信者の妻は主のものであり、主のためのものであるように、彼女の未信者の夫も聖とされ、聖別され、神へと分離されています。なぜなら、彼は自分の妻のためのものですが、その妻は神のもの、神のためのものであるからです。それは、宮と祭壇が世俗的なものに結び付く時、それらを聖とするのと似ています(マタイ23:17、19)。同じ原則が、未信者の妻と子供にも当てはまります。未信者がこのように聖別されるのは、人が救われることを意味するのではありません。それは、聖徒たちの祈りを通して食物が聖別されることが、救いとは何の関係もないのと同じです(Iテモテ4:5)。救われた人は聖別された人、聖徒です。彼に結び付き、彼のための者はすべて、彼のゆえに聖とされます。 |
1コリ 7:15 注1 |
文字どおりには、奴隷とされない。未信者が信者を離れる時、信者は縛られず、未信者との婚姻から解放されます。 |
1コリ 7:15 注2 |
神は彼の救いにおいて、わたしたちを平安の範囲と要素の中で、ご自身に召されました。ですから、わたしたちはこの平安の中で生きるべきです。もし結婚生活で、未信者の側が離れたいと願うなら、わたしたちは去らせるべきです。しかし、神はわたしたちを平安の中に召されたのですから、わたしたちがその平安の中で生きるために、相手側がとどまることに同意しているなら(13節)、神はわたしたちのほうから別れることを望まれません。以下の節(24節まで)は、これに基づいています。すなわち、神はわたしたちを平安の中に召されたのです。 |
1コリ 7:16 注1 |
「なぜなら」は、16節から24節(16―24節)が前の言葉、すなわち、神がわたしたちを平安の中に召されたことの説明であることを示しています。この平安の中にとどまるために、わたしたちは16節から24節(16―24節)の言葉を守らなければなりません。 |