出典 |
フットノート |
1コリ 7:40 注2 |
使徒は10節(10節)で、「わたしは命じます。命じるのはわたしではなく主です」と言いました。12節(12節)では、「わたしは言います・・・・主ではなく、わたしです」と言いました。25節(25節)では、「わたしは主の命令を受けてはいませんが・・・・わたしの意見を述べます」と言いました。ここでは、「わたしの意見では・・・・しかし、わたしも神の霊を持っていると思います」と言います。これらの言葉はすべて、新約の受肉の原則(すなわち、神と人、人と神が一となること)を示しています。これは、旧約の預言(神のために語る)の原則とは完全に異なります。旧約では、エホバの言葉は預言者に臨みました(エレミヤ1:2.エゼキエル1:3)。預言者は、神の代弁者にすぎませんでした。ところが新約では、主は彼の使徒たちと一つになり、彼らは主と一つになります。こうして、両者が共に語るのです。主の言葉は彼らの言葉となり、彼らが語ることは何であれ、主の言葉です。ですから、使徒の命令は主の命令でした(10節)。使徒が言ったことは、たとえ主が語られたのでなくても、やはり新約の神聖な啓示の一部分となりました(12節)。彼は主とそこまでも一でした。すなわち、彼が主からの命令ではなく(25節)、自分の意見を述べた時でさえ、彼は自分も神の霊を持っている、と思いました。彼は神の霊を持っているとはっきり主張したのではなく、自分「も」神の霊を持っていると「思った」のです。これは最高の霊性です。それは受肉の原則に基づいています。 |
1コリ 8:1 注1 |
本書が取り扱っている六番目の問題は、偶像に供えられた物を食べることです(8:1―11:1)。 |
1コリ 8:1 注3 |
この節と7節(7節)、10節(10節)の「知識」は、外側の客観的な知識であり、普通の一般的なものです。 |
1コリ 8:1 注2 |
内側の主観的な知覚を言っています。 |
1コリ 8:1 注4 |
外側の客観的な知識は人を思い上がらせ、善悪知識の木、死の源から来ます。第13章で述べられている霊的な(肉的でない)愛は、命の表現であって、建造します。それは命の木、命の源から来ます。これは神の愛であり(Iヨハネ4:16)、信仰によってわたしたちの中へ注入されます。この信仰は、わたしたちを神との有機的な結合へもたらします。この愛によって、わたしたちは神を愛し(3節)、兄弟たちを愛します(Iヨハネ4:21)。わたしたちはこの愛にしたがって歩くべきです(ローマ14:15)。こうして、わたしたちの歩みは建造するのです(10:23)。 |
1コリ 8:1 注4 |
外側の客観的な知識は人を思い上がらせ、善悪知識の木、死の源から来ます。第13章で述べられている霊的な(肉的でない)愛は、命の表現であって、建造します。それは命の木、命の源から来ます。これは神の愛であり(Iヨハネ4:16)、信仰によってわたしたちの中へ注入されます。この信仰は、わたしたちを神との有機的な結合へもたらします。この愛によって、わたしたちは神を愛し(3節)、兄弟たちを愛します(Iヨハネ4:21)。わたしたちはこの愛にしたがって歩くべきです(ローマ14:15)。こうして、わたしたちの歩みは建造するのです(10:23)。 |
1コリ 8:1 注5 |
個々の信者を成就することだけでなく、キリストの団体のからだを建造することをも言います(14:4―5、12.エペソ4:16)。本書は建造を強調しています(3:9―10、12.10:23)。 |
1コリ 8:2 注1 |
外側の客観的な知識を言っています。3節(3節)の「知られている」も同じです。 |
1コリ 8:2 注1 |
外側の客観的な知識を言っています。3節(3節)の「知られている」も同じです。 |
1コリ 8:2 注1 |
外側の客観的な知識を言っています。3節(3節)の「知られている」も同じです。 |