出典 |
フットノート |
1コリ 8:13 注2 |
すなわち、動物の肉で、偶像に供えられた肉のことを言っています。肉は他の食物よりもさらに誘惑するものであるので、使徒は特にそれを述べています。 |
1コリ 8:13 注1 |
ギリシャ語は、「わなで捕らえる」、「わなにかける」を意味します(参照、10:32のノート1)。 |
1コリ 9:1 注1 |
この章は、偶像への供え物を食べることについての区分の挿入です。この挿入で、使徒は自分自身を模範として、コリントの信者たちに示しています。それは、彼らが人をつまずかせることなく、第8章13節(8:13)での、思いやりのある愛の原則を実行することによって、人を建て上げるためです。 |
1コリ 9:1 注2 |
使徒パウロはすべての人に対して自由であり、だれの奴隷にもされていませんでした(19節)。彼は思いやりのある愛の原則を実行しましたが、どのような特別な食べ方にも束縛されませんでした。キリストにあるすべての信者は、このようであるべきです。 |
1コリ 9:1 注3 |
使徒は、自分を信者たちの模範として示す時、彼の使徒職に触れました。その使徒職は、本書で取り扱われているすべての問題、すなわち、召会生活とその交わりに関する重要な問題を取り扱う権威を彼に与えました。彼がこれらの問題を取り扱うことは、彼の教えに基づいているだけでなく、彼の使徒職が所有する権威にも基づいています。その事態を対処するのに、彼はこの立場を取り、この事柄を、コリントの信者たちに明確にしなければなりませんでした。彼らはパウロの使徒職に疑問を持っており、混乱状態に陥りました。それはおもに、彼らのこの世的な知恵、自信、誇りの愚かさのためでした。 「使徒」というギリシャ語は、「遣わされた者」を意味します。主の使徒は、主に遣わされ、主の権威を持って、神の福音を宣べ伝え、神聖な真理を教え、召会を建て上げる信者です。使徒行伝の第一区分で、ペテロとヨハネがユダヤ人の間で、そのような使徒でした。そして使徒行伝の第二区分で、パウロとバルナバが異邦人の間で、そのような使徒でした。彼らの後に、シラス(すなわちシルワノ)やテモテなど、他の人たちも使徒となりました(Iテサロニケ1:1.2:6)。人が福音を宣べ伝える力、神聖な真理を教える賜物、召会を建て上げる能力を持っている限り、主に遣わされ、主の委託と権威を持った使徒である資格を持ち、確証を得ます。 |
1コリ 9:1 注4 |
これは、パウロが主の栄光の復活した体を見たことを言っています(15:5―8)。これは格別な特権であり、それを見た人に、威厳と栄光を構成します。しかしそれは、主の使徒であることの条件でも資格でもありません。これはバルナバの事例で十分に証明されます。彼は使徒の一人でしたが(使徒14:14)、主をこのようには見ませんでした。しかしながら、霊の中で、霊的啓示によって主を知ることは、確かに人が使徒となるのに必要なことです。 |
1コリ 9:1 注5 |
主にある働きの実り多い結果は、パウロの使徒職の証明であって、資格ではありません。 |
1コリ 9:2 注1 |
なぜなら彼は主にあって、福音を通して彼らを生んだからです(4:15)。彼の労苦の実は、彼の使徒職の証拠でした。 |
1コリ 9:2 注2 |
使徒の有効な働きの十分な結果は、彼の使徒職の証拠、証明であるだけでなく、証印でもあります。それは、彼の使徒の労苦に明確なしるしを置き、彼の使徒職を鑑定し、証明しました。 |
1コリ 9:3 注1 |
1節から2節(1―2節)の弁明のことです。 |