出典 |
フットノート |
1コリ 9:17 注2 |
あるいは、家庭の管理、家族への分配。使徒は伝道者であっただけでなく、神の家の執事、家庭の管理者でもあって、キリストの救い、命、豊富を信者たちに分与していました。そのような務めが、彼に託され、任命された執事職です(エペソ3:2.IIコリント4:1)。 |
1コリ 9:19 注1 |
すなわち、すべての人。 |
1コリ 9:19 注1 |
すなわち、すべての人。 |
1コリ 9:21 注1 |
すなわち、律法の範囲、限界の外に。それゆえ、律法がない。 |
1コリ 9:21 注2 |
すなわち、律法の範囲、限界の内に。それゆえ、律法に服する。パウロはキリストを命とし、キリストによって生きました。パウロの中に命として生きていたキリストは、命の法則を持っておられ、命の法則そのものでもあります(ローマ8:2)。彼はパウロを支配し、規制されました。それは、パウロがキリストに対して、正当に、合法的に、正しく、適切になるためです。ですから、パウロはさらに高い、さらにまさった律法の中にいて、命の法則に従っていました。それゆえに彼は、神の律法の外にいたのではなく、律法のない者ではありませんでした。 |
1コリ 9:22 注1 |
これは、使徒がすべての人のために、自分自身をいっさいの物事に、すなわち、さまざまな方法の食べ方や実行(23節)に順応することを意味します。 |
1コリ 9:23 注1 |
あるいは、共に分にあずかる者、協力者、共同のパートナー。使徒は福音の享受に共にあずかる者、共に分にあずかる者であっただけでなく、福音のために労苦する協力者、共同のパートナーでもありました。しかしながら、彼はここで福音の享受について言っています。ですから、この言葉は本文で、「共にあずかる者」と訳されているのです。 |
1コリ 9:24 注1 |
これは、クリスチャンの生活がレースであって、わたしたちが首尾よく走らなければならないことを啓示しています。 |
1コリ 9:24 注2 |
すなわち、励ましとしての褒賞。17節(17節)のノート1を参照。 |
1コリ 9:25 注1 |
その当時、運動競技のために、木の葉で作られた冠です。朽ちない冠は、レースに勝った勝利の聖徒たちに、主が賞として与えられるもので、救いのほかに加えられる褒賞です(参照、ヘブル10:35のノート1)。わたしたち主の信者はみな、主にある信仰を通して主の救いを受けました。これは一度限りで定められました。ところが、主の褒賞を受けるかどうかは、わたしたちがどのようにレースを走るかにかかっています。この章で、使徒は競技場で走っていました(26節)。彼の晩年の書簡の一つ、ピリピ人への手紙で、彼はまだ走っていました(ピリピ3:14)。テモテへの第二の手紙第4章6節から8節(IIテモテ4:6―8)に至って、彼のレースの最後の瞬間に、主の出現の時、彼は主によって褒賞を与えられるとの確信を持ちました。この賞を目当てとして、使徒はコリントの信者たちに、レースを走って褒賞を得るようにと命じました(24節)。 |