出典 |
フットノート |
1コリ 9:27 注1 |
ギリシャ語は、「目の下が青黒くなるほど顔を打つ」ことを意味します。これは、禁欲主義のように体を虐待したり、グノーシス主義のように体を邪悪と考えたりすることではありません。これは、肉体を服従させ、征服された捕虜とし、奴隷のように仕えさせて、わたしたちの聖なる目的を成就させることです。それは、わたしたちの地上の肢体を死に渡し(コロサイ3:5)、体の行ないを死に渡すこと(ローマ8:13)と同じです。そして、わたしたちの体を肉欲の放縦のために、あるいは神に対して聖であること以外、自分の何かを行なうために用いないことです。コリント人は淫行にふけって、自分の体を乱用し、神の宮を顧みず(6:19)、偶像に供えられた物を思いのまま食べて、弱い信者を顧みませんでした(8:9―13)。 |
1コリ 9:27 注2 |
これは比喩であって、征服された者を捕虜、奴隷として従わせること、捕虜を奴隷にすることと、彼を征服者の目的に仕える奴隷にすることを意味します。 |
1コリ 9:27 注4 |
24節から27節(24―27節)の文脈によれば、これは宣べ伝えの褒賞のことを言っており、それは走るクリスチャンへの励ましです。褒賞は王国と関係があります。王国の実現は、クリスチャンレースに勝った勝利の聖徒たちに対する褒賞となります(参照、ヘブル12:28のノート1)。 |
1コリ 9:27 注5 |
あるいは、不合格とされる、退けられる、すなわち賞に値しない。使徒は確かに、キリストにある信仰を通して、恵みによって救われました。それだけでなく、彼は召されて使徒となり、神の新約エコノミーを遂行しました。しかし、彼はここでとても注意して、自分の行程を走り(使徒20:24)、自分の体を服従させて、彼の聖なる目的にふさわしくしました。それは、彼がキリストの裁きの座で良しとされず、退けられることのないためであり(IIコリント5:10)、来たるべき王国の褒賞に値しない者とならないためです(参照、マタイ7:21―23.25:11―12)。 |
1コリ 9:27 注3 |
ギリシャ語は、可能性を暗示しています。 |
1コリ 10:1 注1 |
「というのは」は、第10章が第9章の継続であるだけでなく、第9章24節から27節(9:24―27)で言われたレースを走ることのさらに進んだ説明でもあることを示しています。そして、イスラエルの子たちが約束の地へ入るために、荒野でのレース途上にあったことを、例証として用いています。 |
1コリ 10:1 注2 |
これは、第9章24節(9:24)の「あなたがたは知らないのですか」という言葉を言っています。 |
1コリ 10:1 注3 |
これは、すべてのイスラエルの子たちが過越を享受した後、ラメセスの地を離れた時からレースに入り、レースを走り始めたことを示しています(出12:37)。 |
1コリ 10:1 注4 |
イスラエルの子たちを覆った雲は、新約の信者たちと共におられる神の霊を予表しています。新約の信者たちが、彼らの過越であるキリスト(5:7)を受け入れると、神の霊は直ちに来て、彼らと共におり、彼らがクリスチャンレースを走るのを導かれます。それは、雲の柱がイスラエルの子たちを導いたのと同じです(出13:21―22.14:19―20)。 |
1コリ 10:2 注3 |
「雲の中で」はその霊の中を象徴し、「海の中で」は水の中を意味します。新約の信者たちは水の中に、またその霊の中にバプテスマされました(マタイ3:11.使徒1:5.Iコリント12:13)。 |