出典 |
フットノート |
マタイ 11:11 注2 |
この言葉は、この時に至るまで天の王国はまだ来ておらず、バプテスマのヨハネはその中にいなかったことを示します。 |
マタイ 11:11 注1 |
文字どおりには、より小さい。ヨハネに先立つすべての預言者は、キリストはやがて来ると預言しただけでした。しかしヨハネは、キリストが来たと証ししました。預言者たちはキリストを待ち望んでいました。しかしヨハネはキリストを見ました。ですから、ヨハネはすべての預言者よりも偉大でした。ヨハネは受肉したキリストを見て、人々に紹介しましたが、自分の内に内住する、復活したキリストを持っていませんでした。王国の民は持っています。ヨハネは、「ここにキリストがおられる」と言うことができただけですが、王国の民は、「わたしにとって生きることはキリストです」(ピリピ1:21)と言うことができます。ですから、天の王国で最も小さい者も、彼よりは大きいのです。人が大きいか小さいかは、その人とキリストとの関係にかかっています。キリストが決定する要因です。キリストに近ければ近いほど、その人は大きいのです。 |
マタイ 11:12 注1 |
バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、パリサイ人は、人々が天の王国に入るのを激しく妨害してきました。そのために、王国に入ろうとする人たちは、「激しく」入らなければなりません。 |
マタイ 11:13 注1 |
これは、旧約の経綸が、ヨハネの到来によって終結したことを証明します。 |
マタイ 11:14 注1 |
あるいは、彼を。 |
マタイ 11:14 注2 |
マラキ書第4章5節(マラキ4:5)は、エリヤが来ることを預言しています。バプテスマのヨハネは、母の胎内にあった時からエリヤの霊と力をもって主に先立ち行く、と言われました(ルカ1:17)。ですから、ある意味で、ヨハネは「来たるべきエリヤ」と考えられてよいでしょう(参照、17:10―13)。しかしながら、マラキ書第4章5節(マラキ4:5)の預言は、実際上、大患難の時に完全に成就されます。その時、実際のエリヤが二人の証人の一人として来て、神の民を強めます(啓11:3―12)。 |
マタイ 11:17 注1 |
キリストとバプテスマのヨハネは、「笛を吹いて」王国の福音を宣べ伝えました。しかしユダヤ教徒たちは、救いの喜びに対して「踊り」ませんでした。ヨハネとキリストは、「弔いの歌を歌って」悔い改めを宣べ伝えました。しかし彼らは、罪の憂いに「嘆き悲しむことは」ありませんでした。神の義は彼らが悔い改めることを要求しましたが、彼らは従いませんでした。神の恵みは彼らに救いを与えましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。 |
マタイ 11:17 注1 |
キリストとバプテスマのヨハネは、「笛を吹いて」王国の福音を宣べ伝えました。しかしユダヤ教徒たちは、救いの喜びに対して「踊り」ませんでした。ヨハネとキリストは、「弔いの歌を歌って」悔い改めを宣べ伝えました。しかし彼らは、罪の憂いに「嘆き悲しむことは」ありませんでした。神の義は彼らが悔い改めることを要求しましたが、彼らは従いませんでした。神の恵みは彼らに救いを与えましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。 |
マタイ 11:18 注1 |
ヨハネが来たのは、人々を悔い改めにもたらし(マルコ1:4)、彼らを罪に対して悲しませるためでした。ですから、彼は食べ飲みを楽しみませんでした(ルカ1:15―17)。キリストが来られたのは、罪人に救いをもたらし、彼らに救いを楽しませるためでした。ですから、彼は罪人と飲食の楽しみを共にされました(9:10―11)。王国の民は、何の規定の下にもなく、神聖な知恵に従い、外側の生活様式にではなく、彼らの知恵である内住のキリストに注意を払います(Iコリント1:30)。 |
マタイ 11:18 注2 |
バプテスマのヨハネは、普通の方法で食べたり飲んだりしないで、奇異で特殊な生き方をしたために、反対者は、「彼は悪鬼にとりつかれている」と言いました。 |