出典 |
フットノート |
1コリ 11:23 注1 |
文字どおりには、引き渡された。 |
1コリ 11:24 注1 |
パンをさくのは、わたしたちがそれを食べるためです(マタイ26:26)。 |
1コリ 11:24 注3 |
主の晩餐を食べるのは、他のどのようなことのためでもなく、主ご自身を記念するためです。 |
1コリ 11:24 注2 |
ここと次の節の「に」という言葉は、目的だけでなく、結果をも暗示します。主の晩餐にあずかることは、確かに一つの結果を生み出します。それは、絶えず主を記念して、主を満足させるということです。 |
1コリ 11:25 注1 |
パンは命のパンであり(ヨハネ6:35)、杯は祝福の杯です(10:16)。この杯は新しい契約であって、新約のすべての豊かな祝福から成っており、神ご自身を含んでいます。この新しい契約は、わたしたちの贖いのために、主が十字架上で流された血によって立てられました(マタイ26:28)。 |
1コリ 11:25 注2 |
文字どおりには、わたしの血の中で。 |
1コリ 11:25 注3 |
主を真に記念するとは、パンを食べ、杯を飲むことです(26節)。すなわち、贖いの死を通してご自身をわたしたちに与えられた主にあずかり、主を享受することです。パンを食べ、杯を飲むとは、贖いの主をわたしたちの分け前として、命と祝福として受けることです。これが真に主を記念することです。 |
1コリ 11:26 注2 |
わたしたちは、主が再来して神の王国を設立されるまで(マタイ26:29)、主の贖いの死を絶えず告げ知らせることによって、主の記念に主の晩餐を食べるべきです。主は最初の到来によって、ご自身の死を成就し、すべてを含む贖いを完成して、召会を生み出されました。主は死なれた後、去って王国を受けられました。そして彼は王国を伴って、再び来られます(ダニエル7:13―14.ルカ19:12)。主の最初の到来と二回目の到来の間が召会時代です。こうして召会は、主の最初の到来と二回目の到来の間を橋渡しして、過去における主の死と、将来における神の王国を結び付けます。ですから、主が来られるまで主の死を告げ知らせるとは、王国をもたらすために、召会の存在を告げ知らせることを暗示します。わたしたちがこのように主の晩餐を食べ、主の最初の到来と二回目の到来のために、主を継続的に記念する時、その晩餐は王国、神の行政に関連して、主を満足させることになります。 |
1コリ 11:26 注1 |
あるいは、宣言する、陳列する。主の晩餐を食べるとは、主の死を記念することではなく、それを告げ知らせ、陳列することです。わたしたちは主の死を告げ知らせ、陳列することによって、主ご自身を記念します。 |
1コリ 11:27 注1 |
すなわち、主のパンと杯の意義を重んじないこと。主のパンと杯は、主がわたしたちの贖いのために死なれたことを通して、わたしたちのためにさかれた彼の体と、わたしたちの罪のために流された血を象徴します。 |