出典 |
フットノート |
1コリ 14:7 注2 |
7節から11節(7―11節)での使徒の例証は、コリントの信者たちが無意味な方法で異言を語ったり、区別もない(7節)、不確かな音(8節)を出したりして、乱用していたことを示します。彼らはまたそれをどの場所でも、どの方法でも、どの状況でも行なって、過度に用いていました。ですから彼は、そのような益の最も少ない小さい賜物の乱用と過度の使用を規正し、制限します。それは、彼らがさらに大いなる賜物を追い求めて、さらに多く聖徒たちを成就し、召会を建造するためです。 |
1コリ 14:10 注1 |
ギリシャ語では、7節から8節(7―8節)の音と同じです。ここではそれは声、すなわち言語を示しています(11節も同じ)。 |
1コリ 14:10 注2 |
文字どおりには、声のない。 |
1コリ 14:11 注1 |
文字どおりには、効能。ギリシャ語では「力」と同じ言葉です。 |
1コリ 14:11 注2 |
ギリシャ語は異国人を意味します。すなわち非ギリシャ人、ギリシャ語を語らない者です。「もともと荒っぽい、耳ざわりなアクセントで発言した者を描写した言葉であったらしい・・・・後に、その後は異国風の、あるいは粗野の意味を持った」(ビンセント)。 |
1コリ 14:11 注2 |
ギリシャ語は異国人を意味します。すなわち非ギリシャ人、ギリシャ語を語らない者です。「もともと荒っぽい、耳ざわりなアクセントで発言した者を描写した言葉であったらしい・・・・後に、その後は異国風の、あるいは粗野の意味を持った」(ビンセント)。 |
1コリ 14:12 注1 |
文字どおりには、もろもろの霊。ここで使徒は、「そこであなたがたは霊について熱心なのですから」と言いました。これは、その当時、異邦のコリント出身の信者たちが、彼らの背景のゆえに、霊的なことを追求する上で、唯一の聖霊と、多くの邪悪な霊どもと混同していたことを示しています。彼らは聖霊の唯一であることについてはっきりしていませんでしたし、十分に保ってもいませんでした。これは、第12章4節(12:4)の「同じ霊」という言葉で証明されます。ここの使徒の言葉は、彼らの混同した追求を認めませんでした。むしろ、彼らの混同という事実に基づいて、彼らの混同の中で超越し、卓越するようにと進めました。 |
1コリ 14:12 注3 |
使徒は、召会の建造という考えで、完全に占有されていました。彼は召会の感覚で満ちており、完全に召会を中心としていて、自己中心的なコリント人とは全く違っていました。彼らの霊的賜物に対する問題は、彼らが自己を追求していて、召会の建造を顧みなかったことにありました。人の生活の領域にある初めの六つの問題を取り扱う時、使徒は、神がわたしたちに与えられた唯一の分け前であるキリストを強調しました。神の行政の領域にある後半の五つの問題を取り扱う時、使徒は、神がわたしたちに与えられた唯一の目標である召会を強調しました。コリント人はキリストに欠けていただけでなく、召会を認識していませんでした。使徒の完成する務めは(コロサイ1:25)、神の奥義としてのキリストと(コロサイ2:2)、キリストの奥義としての召会(エペソ3:4)から成っています。しかしながら、コリント人は使徒の務めの下にあったとはいえ、そのいずれも見失いました。彼らはあわれにも、自分自身の中にあって、盲目で無知でした。 |
1コリ 14:12 注2 |
ギリシャ語は、「完全になる」、「満ちあふれる」、「あふれ流れる」を意味し、「卓越する」ことをも意味します。第8章8節(8:8)のノート1を見てください。この節の文脈によれば、ここの言葉は「満ちあふれる」、「増し加わる」を意味するのではなく、「卓越して非凡になる」ことを意味します。この節の最初の部分、「あなたがたは、霊について熱心なのですから」という言葉は、当時のコリントの信者たちがすでに、聖霊と邪悪な霊と混合して、霊的な賜物を追い求めていたことを示します。そのような混合した追求を、コリントの信者たちを未開人と考えるまでに、使徒はとても低いものと考えていました。ですから、使徒は彼らに、自分の享受や高揚のために、分別のない、混合した霊的な事柄を追い求めないで、卓越しているように、すなわち、召会の建造のために、低い追求をはるかに越えるようにと勧めました。 |
1コリ 14:14 注1 |
祈りの中でわたしたちの霊を用い、訓練することは、確かにわたしたちの霊的命にとって健康的です。しかし、わたしたちの思いが作用せず、用いられないことは、絶対に不健康です。わたしたちは主に祈る時、わたしたちの新しくされた思いをもって、わたしたちの再生された霊を活用しなければなりません。わたしたちの思いは、祈りの中では言うまでもなく、日常の歩みの中でも、わたしたちの霊に付けられるべきであって(ローマ8:6)、決して霊から分離されていてはなりません。わたしたちの祈りは、わたしたちが接触した神と、神が接触している霊から、わたしたちの冷静で理解力のある思いを通して、明確で理解し得る言葉をもって、なされなければなりません。それは、わたしたちの祈りが神に触れ、わたしたち自身を養い、力づけ、他の人を建造するためです。 |