出典 |
フットノート |
1コリ 14:19 注1 |
これは、召会の集会で、召会の建造のために、理解できる言葉で語ることがどれほど必要であるかを、そして異言で語ることが全く必要でないことを示します。 |
1コリ 14:20 注2 |
あるいは、思考、推理、思い。ギリシャ語では、15節と19節(15―19節)の「思い」という言葉とは異なっています。それは「恍惚との差別を強調する」(ビンセント)。これは、コリントの信者たちの、異言で語ることに対する理解と思考に関してです。彼らは異言を語ることに恍惚状態でしたから、この事の理解については子供のようであり、円熟した信者のように、思いを正しく用いていませんでした。使徒は彼らに、理解力において成長し、円熟するように、すなわち、異言で語る事でも自分と同じように(19節)、彼らも思いを正しく使うようにと勧めます。 |
1コリ 14:20 注1 |
コリントの信者たちは命が幼いだけでなく(3:1)、理解力においても子供でした。彼らは命においても思いの理解力においても、成長する必要がありました。彼らの問題を対処する使徒の努力は、この目的のためでした。それは、彼らがあらゆる面で成熟するためでした。 |
1コリ 14:20 注2 |
あるいは、思考、推理、思い。ギリシャ語では、15節と19節(15―19節)の「思い」という言葉とは異なっています。それは「恍惚との差別を強調する」(ビンセント)。これは、コリントの信者たちの、異言で語ることに対する理解と思考に関してです。彼らは異言を語ることに恍惚状態でしたから、この事の理解については子供のようであり、円熟した信者のように、思いを正しく用いていませんでした。使徒は彼らに、理解力において成長し、円熟するように、すなわち、異言で語る事でも自分と同じように(19節)、彼らも思いを正しく使うようにと勧めます。 |
1コリ 14:20 注3 |
幼稚なコリントの信者たちは、続く21節から25節(21―25節)で述べられている事柄を知ることができるために、彼らの理解力では完全に成長している必要があります。 |
1コリ 14:21 注1 |
旧約聖書のことを言っています(参照、34節のノート3)。 |
1コリ 14:21 注2 |
イザヤ書第28章9節から13節(イザヤ29:9―13)のこの言葉は、異邦人の舌が語ることが、イスラエルの子たちに対する懲らしめであったことを示します。それは、理解できる神の言葉を、彼らが信じなかったからです。ですから、使徒がこの言葉を引用したのは、神が使徒を通して与えられた理解できる啓示を、コリント人が正しく受け取らなかったことを暗示しています。 |
1コリ 14:22 注1 |
この節の冒頭の「ですから」は、イザヤ書第28章から引用された21節(21節)の言葉によれば、異言は信じない者たちへの否定的なしるしであって、彼らの不信仰のあわれな状態を表明します。これは、異言が語られる所には、そこに人の不信仰があることを意味します。使徒のここでの意図は、コリント人が過度に異言を語るのを制止することにありました。ところが預言は、信じる者たちへの積極的なしるしであって、彼らの信仰の正しい状態を表明します。これは、預言の実行への励ましです。 |
1コリ 14:23 注1 |
全召会の集会で、もしすべての人が異言で語るなら、彼らは気が違っていると、見ている人は考えるでしょう。ですから、すべての人が召会の集会で異言で語るように励ますのは、正しくありません。これは、使徒パウロの言葉に違反しています。 |
1コリ 14:23 注2 |
あるいは、狂気、狂ってたわ言を言っている。この言葉は、過度に異言で語ることを強く阻止します。 |