出典 |
フットノート |
1コリ 15:3 注3 |
旧約聖書、すなわち、律法と預言者たちです。 |
1コリ 15:3 注4 |
原文は、複数。 |
1コリ 15:5 注1 |
あるいは、「ケパに見られ」。初期の使徒たちや弟子たちは、キリストの復活を自らの目で見た証し人であり(使徒1:22)、彼らの宣べ伝えは、これに対する証しを強めました(使徒2:32.4:33)。彼らは復活のキリストを教えによるだけでなく、生活によっても証ししました。キリストが復活の中を生きられることによって、彼らはキリストと共に生きました(ヨハネ14:19)。 |
1コリ 15:10 注1 |
恵みはこの節で三回、述べられています。それは、復活したキリストが命を与える霊となって(45節)、復活の中で手順を経た三一の神をわたしたちの中にもたらし、わたしたちの命と命の供給になられて、わたしたちが復活の中で生きるようにすることです。ですから、恵みとは、三一の神が、わたしたちの命とあらゆるものとなられることです(ヨハネ1:17のノート1.ガラテヤ2:21のノート1)。タルソのサウロは罪人のかしらでした(Iテモテ1:15―16)が、この恵みによって最も前面にいる使徒となり、どの使徒よりも多く労苦しました。この恵みによる彼の務めと生活は、キリストの復活に対する、だれも否定することのできない証しです。 |
1コリ 15:10 注2 |
「わたしではなく・・・・神の恵みです」は、ガラテヤ人への手紙第2章20節(ガラテヤ2:20)の「わたしではありません・・・・キリスト」と等しいです。使徒を動機づけ、彼の中で活動した恵みは、何かの事物ではなく、生けるパースン、復活のキリストです。彼は父なる神の化身であって、すべてを含む命を与える霊となられて、使徒の中で彼のすべてとして住んでおられます。 |
1コリ 15:12 注1 |
この章で使徒は、死人の復活はないと異端を言っているコリント人を対処します。コリント人はサドカイ人のようでした(マタイ22:23.使徒23:8)。これは、彼らの間の十番目の問題です。それは神の新約エコノミーに最も損害を与え、破壊するもので、ヒメナオとピレトの復活に関する異端よりも、さらに悪いものでした(IIテモテ2:17―18)。復活は神のエコノミーの命脈、生命線です。もし復活がないとしたら、神は生きている者の神ではなく、死んだ者の神となるでしょう(マタイ22:32)。復活がないなら、キリストは死人の中から復活させられなかったでしょう。彼は死んだ救い主であって、生ける救い主ではないでしょう。しかし彼は永遠に生きており(啓1:18)、極みまで救うことができる方です(ヘブル7:25)。復活がないなら、彼の死によってわたしたちが義とされることの生ける証拠も(ローマ4:25とノート)、命の分け与えも(ヨハネ12:24)、再生も(ヨハネ3:5)、新しくされることも(テトス3:5)、造り変えも(ローマ12:2.IIコリント3:18)、キリストのかたちへ同形化されることも(ローマ8:29)ないでしょう。復活がないなら、キリストの肢体も(ローマ12:5)、キリストの豊満としてのからだも(エペソ1:20―23)、キリストの花嫁としての召会も(ヨハネ3:29)なく、新しい人も(エペソ2:15.4:24.コロサイ3:10―11)ないでしょう。復活がないなら、神の新約エコノミーは完全に崩壊し、神の永遠の目的は無効になるでしょう。 |
1コリ 15:14 注1 |
すなわち、空虚な、無益な。復活の中の生けるキリストがなければ、福音の宣べ伝えも、福音に対するわたしたちの信仰もむなしく、無益であり、何の実際もないでしょう。 |
1コリ 15:14 注1 |
すなわち、空虚な、無益な。復活の中の生けるキリストがなければ、福音の宣べ伝えも、福音に対するわたしたちの信仰もむなしく、無益であり、何の実際もないでしょう。 |
1コリ 15:17 注1 |
すなわち、実を結ばない、価値がない。もしキリストが復活させられて、わたしたちの中でわたしたちの命、またすべてとして生きるのでないのでしたら、彼にあるわたしたちの信仰は実を結ばないし、価値のないものとなります。そして命の分け与え、罪からの解放、サタンへの勝利、命の成長といった成果は、何もないでしょう。 |
1コリ 15:17 注2 |
キリストの死は、わたしたちの罪(複数)のゆえに罪定めされることからわたしたちを救うのであって、罪(単数)の力からではありません。わたしたちを罪の力から救うのは、キリストの復活の命です(ローマ8:2)。もしキリストが復活されなかったとしたら、わたしたちは依然として罪(複数)の中にとどまり、罪(単数)の力の下にあるでしょう。 |