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出典
フットノート
1コリ 16:19 注1
これは、アクラとプリスカがエペソに住んでいた時、そこの召会は彼らの家で集会していたことを意味します(
使徒18:18―19
、
26
)。彼らがローマに住んでいた時、ローマに在る召会は、彼らの家で集会していました(
ローマ16:5
.参照、
コロサイ4:15―16
.
ピレモン1:2
)。
1コリ 16:21 注1
10節から21節(
10―21節
)は、麗しい調和の中で実行されている、からだの生活の実行上の絵を与えています。それは、使徒たちと同労者たちとの間だけでなく、彼らと召会との間でも、からだの建造のために行なわれるのです。それは、第12章から第14章でとても強く強調されていることです。
1コリ 16:22 注1
ギリシャ語は「アナテマ」で、「のろわれた物、あるいは人」を意味します。すなわち、「災いのために取って置かれ、ゆだねられた」。神を愛することは、わたしたちを神に祝福された人にします。そしてわたしたちの理解を越えて、神がわたしたちのために定め、備えられた神聖な祝福にあずからせます(
2:9
)。神を愛さないことは、わたしたちをのろわれた者、のろいのために取って置かれた者にします。何という警告でしょう!
1コリ 16:22 注2
アラム語からの一句、「マラナタ」は、「主は来られる!」、あるいは、「わたしたちの主よ、来たりませ!」を意味します。それは、主の再来が、裁きを伴って来ることを思い起こさせる叫びです。
1コリ 16:23 注1
第15章10節(
15:10
)のノート1を参照。
1コリ 16:24 注1
天然の愛ではなく、キリストにある愛、復活の中の愛(
4:21
)、神の愛であって、キリストの恵みとその霊の交わりを通して(
IIコリント13:14
)、わたしたちの愛となります。パウロの十四の書簡のうち、この書簡だけが、このような愛の確信をもって終わります。これは、使徒が厳しく叱責して、彼らを対処してきたからです(
1:13
.
3:3
.
4:7―8
.
5:2
、
5
.
6:5―8
.
11:17
)。彼はキリストにあって、神の愛の中で、彼らに対して忠信、誠実、率直であり(
IIコリント2:4
)、少しも手腕を用いませんでした。ですから、主は彼の対処を尊ばれました。そしてコリント人は彼の叱責を受け入れ、悔い改めて、益を受けました(
IIコリント7:8―13
)。
2コリ 1:1 注1
Iコリント第1章1節(
Iコリント1:1
)のノート2を参照。
2コリ 1:1 注3
Iコリント第1章2節(
Iコリント1:2
)のノート2を参照。
2コリ 1:1 注2
Iコリント第1章2節(
Iコリント1:2
)のノート1を参照。
2コリ 1:1 注4
Iコリント第1章2節(
Iコリント1:2
)のノート7を参照。
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