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出典

フットノート

マタイ 12:5 注1 ここで主は、聖書のもう一つの事例をパリサイ人に指摘し、いかに彼らが聖書を知らないかを暴露されました。
マタイ 12:6 注1 主はご自分が宮よりも大いなるものであることを、パリサイ人に啓示されました。これはもう一つの変化、すなわち宮からパースンへの、予表を成就することへの変化でした。ダビデの事例では、時代から時代への変化がありました。ここでの事例は、祭司に関することであり、宮から、宮よりも大いなる方への変化です。祭司たちが安息日に宮の中で行動することは、罪になりませんでした。主の弟子たちが安息日に、宮よりも大いなるものであるキリストの中で行動することが、どうして罪になり得たでしょう? 第一の事例では、王がレビ記の規定を破りました。第二の事例では、祭司たちが安息日の規定を破りました。聖書によれば、どちらも罪にはなりませんでした。ですから、主がここで行なわれたことは、聖書的に正しかったのです。
マタイ 12:8 注1 主はここで第三の変更、安息日から安息日の主への、権利における変更を示されました。安息日の主として、彼は安息日に関する規定を変更する権利を持っておられました。こうして主は、罪定めをするパリサイ人に、三重の決定を下されました。彼は真のダビデ、さらに大いなる宮、安息日の主でした。ですから、彼は安息日に何でも彼の思うように行なうことができました。また彼が行なったどんな事も、彼自身によって義とされました。彼はすべての儀式と規定を超越する方です。彼がそこにおられたので、儀式や規定に注意を払う必要は全くありませんでした。
マタイ 12:10 注1 この章は、二つの安息日における主の動きを記録しています(ルカ6:16)。彼が最初の安息日に行なったことは、彼がからだのかしらとしてのご自身を顧みられたことを示しています。かしらとして彼はすべてです。彼は真のダビデ、さらに大いなる宮、安息日の主です。主が二番目の安息日に行なったことは、彼が肢体を顧みられたことを象徴します。この安息日に、彼は人のなえた手をいやし、この人を一匹の羊にたとえられました(11―12節)。手は体の肢体であり、羊は群れの一部です。主は彼の肢体をいやすためには、穴に落ちた羊を救うためには、どんな事でもされます。安息日であろうとなかろうと、主は彼のからだの死んだ肢体をいやすことに関心を持たれます。彼にとって、規定は問題ではなく、穴に落ちた羊を助けることがすべてです。
マタイ 12:13 注1 主はその人に、「手を伸ばしなさい」という言葉を与えられました。主の言葉には、生かす命がありました。手を伸ばすことによって、その人は主の命を与える言葉を受け取りました。すると彼のなえた手は、彼の言葉の中の命によって良くなりました。
マタイ 12:14 注1 主が安息日を破るのは、宗教的なパリサイ人の目に、神とイスラエル国民との間の契約を破ること、すなわち、神とイスラエルとの関係を破棄することでした。そこで彼らは彼に敵対する謀議をし、どのように彼を殺そうかと相談しました。安息日を破ることは、ユダヤ宗教家たちが天の王を拒絶する原因となりました。
マタイ 12:18 注1 ギリシャ語は、「従者の少年」を意味します。
マタイ 12:18 注3 これは、ユダヤ人の拒絶に基づいて、天の王が彼の天的王国と共に、諸国民、すなわち異邦人に転向されること、異邦人が彼を受け入れ、彼に信頼することをはっきりと示しています(21節)。
マタイ 12:18 注2 あるいは、義、(義なる)裁き。20節(20節)も同じ。
マタイ 12:20 注1 ユダヤ人には、葦の笛を作る習慣がありました。葦が傷つくと、彼らはそれを折りました。彼らはまた油を燃やすために、亜麻で灯心を作りました。油が燃えつき、灯心がくすぶると、彼らはそれを消しました。主の民のある者は、音楽的な音色を出すことができない傷ついた葦のようでした。他の者は、光を輝かすことのできない、煙っている灯心のようでした。しかし主は、傷ついた者たちを折ることも、煙っている者たちを消すこともされません。
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