出典 |
フットノート |
2コリ 3:11 注1 |
すなわち、新契約の務めの拡大を通して廃止される過程にあるもの。 |
2コリ 3:11 注2 |
7節から11節(7―11節)は、モーセの務め、律法の務め、罪定めと死の務めの栄光が劣っていることと、使徒の務め、恵みの務め、義とその霊の務めがまさっていることを見せています。前者は、一時的な過ぎ去っていく栄光を通して存在したものであり、後者は、永遠に栄光の中に存続するものです。 第2章12節から17節(2:12―17)で、使徒はその務めの凱旋と効果について語りました。この章の1節から6節(1―6節)で、彼はその機能と資格について語り、7節から11節(7―11節)では、その栄光と卓越性について語りました。 |
2コリ 3:12 注1 |
すなわち、新契約の務めの輝く栄光が、永遠に存続するという望み。使徒がこの望みを持っていたことは、モーセが望みを持っていなかったことと対照的です(13節)。モーセが望みを持っていなかったのは、旧契約の律法の務めの栄光が、消え去っていくものであったからです。 |
2コリ 3:12 注2 |
ギリシャ語では、大胆に語るという意味も含んでいます。モーセが自分の顔を覆ったのとは対照的に(13節)、使徒たちは自分たちの務めについて大胆に語りました。彼らは隠れることなく、外見を装うこともなく、公に、そして自由に語りました。 |
2コリ 3:13 注1 |
モーセは、イスラエルの子たちに神の言葉を語っている間は、栄光に輝いた顔を隠しませんでした。しかし語り終えると、自分の顔を覆いました(出34:29―33)。それは、消え去っていく彼の務めの終わりを、彼らに見せないためでした。彼は、消え去っていく自分の律法の務めの終わりを、彼らに見られたくなかったのです。 |
2コリ 3:14 注1 |
文字どおりには、思想。「本来の意味は、思いから出るもの・・・・ピリピ第4章7節(ピリピ4:7)・・・・IIコリント第2章11節(IIコリント2:11)。したがって派生的に、思いそのもの」(ビンセント)。 |
2コリ 3:14 注2 |
おおいはキリストにあって廃棄されました。しかしこの事実が、イスラエルの子たちに明らかにされていなかったので、彼らの思想はかたくなにされ、思いは盲目にされました。そのおおいは、キリストにあって、新契約のエコノミーを通して廃棄されたのですが、彼らが旧契約を読む時(15節)、そのおおいは彼らの心に依然として残っています。 |
2コリ 3:15 注1 |
モーセ五書を指します(ヨハネ5:47)。 |
2コリ 3:16 注1 |
これは、彼らの心が主に向いていない時、彼らの心におおいがかかっていることを示します。彼らの心が主に向く時、そのおおいは取り除かれます。実は、主に向いていない彼らの心が、そのおおいです。彼らの心を主に向けることが、おおいを取り除くことです。 |
2コリ 3:17 注1 |
あるいは、さらに、それに加えて。心が主に向く時、おおいは取り除かれます。それに加えて、さらに、主はその霊であって、わたしたちに自由を与えてくださいます。主がその霊なので、心が主に向く時、おおいは取り除かれ、心は律法の文字の束縛から自由にされます。 |