出典 |
フットノート |
2コリ 3:17 注2 |
第2章12節(2:12)に始まるこの区分の文脈によれば、ここの「主」は、主なるキリストのことを言っているはずです(2:12,14―15,17.3:3―4,14,16.4:5)。ですから、これは、キリストがその霊であることを強調している聖書の中の強い言葉です。「16節(16節)の主なるキリストは、その霊であって、新契約を浸透し、それを活気づける。わたしたちは、その新契約の奉仕者である(6節)。そしてその奉仕の務めは、栄光を帯びている(8節)。ローマ8:9―11(ローマ8:9―11).ヨハネ14:16(ヨハネ14:16),18(ヨハネ14:18)を参照」(ビンセント)。「16節(16節)の主は、6節(6節)の人に命を与えるその霊である。これは、『キリスト』、『その霊である』と言われている『主』は、聖霊ご自身であることを意味する・・・・ここのキリストは、キリストの霊である」(アルフォード)。「造り変え内住する霊のすべてはキリストご自身である。『主はその霊である』」(ウイリストン・ウォーカー)。 |
2コリ 3:17 注3 |
その霊は、三一の神の究極的表現であって、ヨハネの福音書第7章39節(ヨハネ7:39)では、まだありませんでした。それはその時点で、イエスがまだ栄光を受けておられなかったからです。神の化身であったイエスは、経過しなければならなかった手順を、まだ終えておられませんでした。三一の神は、彼の贖いのエコノミーのために、人の中で、受肉、十字架、復活などの手順を経過しなければなりませんでした。彼は復活した後、すなわちすべての手順を経た後、命を与える霊となられました(Iコリント15:45)。この命を与える霊は、新約では「その霊」と呼ばれ(ローマ8:16,23,26―27.ガラテヤ3:2,5,14.6:8.啓2:7.3:22.14:13.22:17)、わたしたちに神聖な命を与え(6節.ヨハネ6:63)、律法の束縛からわたしたちを自由にします。 |
2コリ 3:17 注4 |
主の霊は主ご自身であり、自由は彼と共にあります。 |
2コリ 3:17 注5 |
おおいの下にある律法の文字からの自由(ガラテヤ2:4.5:1)。 |
2コリ 3:18 注1 |
「しかし」は、わたしたち信者が、イスラエルの子たちと異なることを示します。彼らは覆われていました。しかしわたしたちは、おおいのない顔をもって、鏡のように主の栄光を見つめ、映します。こうして栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられていきます。 |
2コリ 3:18 注2 |
使徒たち。彼らはすべての信者の模範、代表として、キリストの奉仕者です。8節から9節(8―9節)では、栄光は、新契約の務めと関係がありました。ここでの栄光は、使徒たち、新契約の奉仕者たちと関係があります。これは、新契約の務めが、その奉仕者によって遂行される単なる活動ではないことを示します。新契約は、新契約の奉仕者が何であるかです。目に見えない同じ栄光が、彼らの働きと彼ら自身に浸透し、充満して、その結果、務めとその奉仕者の間に区別はなくなります。ですから、彼らとその務めは一つです。 |
2コリ 3:18 注3 |
覆われた思い、覆われた心と対照的(14―15節)。わたしたちの顔におおいがないとは、心が主に向いていること、おおいが取り除かれていることを意味します。そしてその霊としての主が、わたしたちを律法の束縛、おおいから自由にし、その結果、わたしたちと主を隔てるものはもはや何もないことを意味します。 |
2コリ 3:18 注5 |
わたしたちは、主の栄光を見つめ、また映す鏡のようです。ですから、はっきり見て、正しく映すために、わたしたちの顔のおおいは完全に取られるべきです。 |
2コリ 3:18 注6 |
すなわち、復活し、昇天された方である主の栄光。彼は神と人の両方であり、受肉、地上での人の生活、十字架を経過して復活に入り、全き贖いを成就して、命を与える霊となられました。彼は命を与える霊として、わたしたちの中に住まわれます。その目的は、キリストご自身と、彼が達成し、獲得し、到達されたすべてを、わたしたちに現実のものとならせることです。それは、わたしたちが彼と一つになり、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられるためです。 |
2コリ 3:18 注4 |
主の栄光を見つめるとは、わたしたち自身が主を見ることです。主の栄光を映すとは、わたしたちを通して、人が主を見ることができるようになることです。 |