出典 |
フットノート |
2コリ 4:3 注1 |
古い観念、特に律法に関する観念によって覆われている(3:14―15)。原則として、哲学、宗教、文化的伝統など、キリストの福音の理解を妨げるすべてのものは、おおいです。ですから、写真を撮る時、レンズのカバーを取らなければならないように、キリストの宣べ伝えも、人々のおおいを取り除かなければなりません。 |
2コリ 4:4 注1 |
サタン、欺く者、この時代の支配者。彼は今日の世を支配し、その思考と思いをくらますことによって、人から礼拝されることを求めています。 |
2コリ 4:4 注3 |
文字どおりには、思想。第3章14節(3:14)のノート1を参照。 |
2コリ 4:4 注2 |
すなわち、人の理解におおいをかけてしまい。 |
2コリ 4:4 注4 |
神のかたちとしてのキリストは、神の栄光の輝きです(ヘブル1:3)。ですからキリストの福音は、光り輝き、照らす彼の栄光の福音です。サタン、すなわちこの時代の神は、未信者の思考と思いを盲目にし、キリストの福音の輝きを、彼らの心の中に照らさせないようにしています。これは、カメラのレンズが覆われていて、光が遮断され、カメラが映像を写すことができないのと似ています。また、盲人や目が覆われている人の中へ、太陽の光が入ってこないことと似ています。 |
2コリ 4:4 注5 |
ギリシャ語の意味は、(1)「はっきり見る」、「識別する」、(2)「照らす」。 |
2コリ 4:5 注1 |
これは、使徒たちの福音、すなわちキリストの栄光の福音が、なぜ覆われるべきでなかったかを説明します。彼らは、自分自身を宣べ伝えたり、高く揚げたりしないで、キリスト・イエスをすべてのものの主として宣べ伝え、高く揚げ、イエスのために、信者たちの奴隷として振る舞いました。 |
2コリ 4:5 注2 |
主としてのキリスト・イエスは、万物の上にいまし、永遠にほめたたえられる神であるキリスト(ローマ9:5)、受肉して人となられた永遠の言(ヨハネ1:14)、人として十字架につけられて、わたしたちの救い主となり(使徒4:10―12)、復活して神の子となられたイエス(使徒13:33)、高く揚げられて、主となり(使徒2:36)、すべての人の主ともなられたキリスト(使徒10:36.ローマ10:12.ヨハネ20:28.Iコリント12:3)、神のかたち、神の栄光の輝き(ヘブル1:3)、これらを含みます。これが福音の内容です。ですから、福音はキリストの栄光の福音であり、それは人の心の中で照り、輝き、光ります(6節)。もし人の心に何のおおいもなく、サタン、すなわちこの時代の神によって盲目にされていないなら、人は福音の輝きを見ることができます(4節)。 |
2コリ 4:5 注3 |
「主」との対比。使徒たちは、キリストを主として高く揚げましたが、彼ら自身は、信者たちに奉仕する奴隷であるにすぎないと考えました。 |
2コリ 4:6 注1 |
これは、前の節で述べられていることの説明です。使徒たちは、キリストを主と宣べ伝え、彼ら自身は信者の奴隷であることを宣べ伝えました。なぜなら、暗やみから光が照りいでよ、と命じられた神が、彼らの心の中を照らされたからです。神は宇宙の中を照らして、旧創造を生み出されました。今や、神は使徒たちの心の中を照らして、彼らを新創造とされました。ですから、彼らは宣べ伝えの中で、キリストを主として高く揚げることができ、また彼らの務めの中で、信者たちの奴隷として振る舞うことができました。彼らがキリストのために行なったこと、そして彼らが信者たちに対してどうであったかは、神の照らしの結果です。神の照らしは、新契約の奉仕者と彼らの務めを生み出します。 |