出典 |
フットノート |
2コリ 4:9 注2 |
あるいは、捨てられる、見放される。文字どおりには、(ひどい苦境の中で)置き去りにされる。 |
2コリ 4:9 注3 |
あるいは、打ち倒される。 |
2コリ 4:9 注4 |
すなわち、殺される。3節(3節)の「滅びつつある」と同じギリシャ語。 |
2コリ 4:10 注1 |
すなわち、殺すこと、死なせること。これは、主イエスが受け、経過された死の働き、十字架の働きのことを言っています。わたしたちの経験の中で、これはイエスのために、キリストのからだのために、新契約の務めのために、わたしたちに臨む苦難、迫害、対処です。これは、旧創造にあるすべての人が受ける苦難、困難ではありません。すなわち、病気、災害など、あるいは、罪、過ち、責任を果たすことでの失敗のゆえに被る懲らしめ、矯正、訓練などではありません。このイエスの死に至らせる力は、わたしたちの天然の人、外なる人、肉を衰えさせます。こうして、わたしたちの内なる人は、成長し、新しくされる機会を持つのです(16節)。 |
2コリ 4:10 注2 |
・・・・のため、・・・・の結果を伴って。十字架の殺しは、復活の命の現れという結果をもたらします。この日ごとの殺しは、復活の中の神聖な命を解き放つためです。 |
2コリ 4:10 注3 |
復活の命。主イエスはこの命を、十字架の働きを通して生き、表現されました。 |
2コリ 4:11 注1 |
この二つの節の「イエス」という名称は、主イエスが地上で生きられたような命を、使徒たちが生きたことを意味します。主の命は、十字架の殺しの下にあって、復活の命を現す命です。このように生きることは、主ご自身を彼の務めと一つにしました。そして彼の命は、彼の務めでした(ヨハネ6:14―15.12:13,19,23―24)。 |
2コリ 4:11 注2 |
10節(10節)の「体」と11節(11節)の「肉体」は、互いに交換できる言葉として用いられています。これは、わたしたちの死ぬべき肉体が、堕落した体であることを示します。 |
2コリ 4:12 注1 |
わたしたちが主の死の殺しの下にある時、彼の復活の命は、わたしたちを通して人に分け与えられます。人に命が分け与えられるのは、常にわたしたちが十字架の殺しを経験したことの結果です。 |
2コリ 4:13 注1 |
この節の引用文で言及されているのと同じ霊です。 |