出典 |
フットノート |
2コリ 5:20 注1 |
使徒たちは、キリストを代表して神の目的を達成する、というはっきりした務めを託されました。 |
2コリ 5:20 注2 |
19節(19節)では、神に和解させられるのはこの世です。この節では、それは信者たちです。彼らは、すでに神に和解させられていますが、さらに一層、神に和解するのです。これは、人が全く神に和解させられるのに、二つの段階が必要であることを、はっきりと示しています。第一の段階は、罪人が罪から神に和解させられることです。このために、キリストはわたしたちの罪のために死なれました(Iコリント15:3)。それは、わたしたちの罪が神によって赦されるためです。これは、キリストの死の客観的な面です。この面では、彼はわたしたちの罪を、十字架上で担ってくださいました。そして、それらの罪は、わたしたちのために、彼の上で神によって裁かれました。第二の段階は、天然の命に生きている信者たちが、肉から神に和解させられることです。このために、キリストは、わたしたち、人のために死なれました。それはわたしたちが、復活の命の中で、彼に生きるためです(14―15節)。これはキリストの死の主観的な面です。この面では、彼はわたしたちに代わって罪とされ、神に裁かれ、殺されました。それはわたしたちが、キリストにあって神の義となるためです。彼の死の二つの面によって、彼は神の選びの民を、完全に神に和解させられました。和解のこの二つの段階は、幕屋の二つの幕によって、はっきりと描写されています。第一の幕は、「とばり」と呼ばれています(出26:37)。罪人は、なだめの血による和解を通して、神にもたらされました。彼はこのとばりを通って、聖所に入っていきました。これは和解の第一段階を予表します。しかし第二の幕(出26:31―35.ヘブル9:3)が、至聖所の中におられる神から、依然として罪人を隔てていました。罪人が、至聖所の中の神にもたらされるためには、この幕が引き裂かれる必要がありました。これは和解の第二段階です。コリントの信者たちは、第一の幕を通過して、聖所に入り、神に和解させられました。ところが彼らは、依然として肉の中に生きていました。ですから彼らは、すでに裂かれている第二の幕(マタイ27:51.ヘブル10:20)を通過し、至聖所に入って、彼らの霊の中で、神と共に生きる必要がありました(Iコリント6:17)。この手紙の目標は、彼らを至聖所にもたらして、彼らを霊の中(Iコリント2:15)、すなわち至聖所の中にいる人とならせることです。「神に和解しなさい」と使徒が言ったのは、このような意味です。これが、キリストの中で完全に成長した人をささげることでした(コロサイ1:28)。 |
2コリ 5:21 注1 |
キリストは、接触や個人的経験によって、経験的に罪を知ることはありませんでした(参照,ヨハネ8:46.Iペテロ2:22.ヘブル4:15.7:26)。 |
2コリ 5:21 注2 |
罪は神に反逆したサタンから来ました(イザヤ14:12―14)。この罪は、邪悪な者から出てきて、人の中に入り込みました(ローマ5:12)。そして人を罪人としただけでなく、神の裁きの下にある罪そのものとしました。ですから、キリストが肉体の中で人となられた時(ヨハネ1:14)、彼は罪とされ(しかし彼の中に罪はなかった)、わたしたちのために神によって裁かれたのです(ローマ8:3)。それは、わたしたちが彼にあって神の義となるためです。 |
2コリ 5:21 注4 |
地位的にだけでなく、復活の中で有機的に彼と結合された中で。わたしたちは罪となったことによって、神の敵でした(コロサイ1:21)。その罪は、神に反逆したサタンから来ました。キリストは、肉において受肉されたことを通して、わたしたちと一つになることによって、わたしたちに代わって罪とされました。キリストはわたしたちのために、ご自分の死を通して、肉において、罪として神によって罪定めされました。それはわたしたちが、キリストの復活の中で彼と一となり、神の義となるためです。この義は、わたしたち神の敵を、神に和解させることができ、また和解させました(18―20節.ローマ5:10)。 |
2コリ 5:21 注3 |
義は神の行政のために、神から出てきます(詩89:14.97:2.イザヤ32:1)。この義は、わたしたちの義となられるキリストであり(Iコリント1:30)、わたしたちを(神の御前に義とするのではなく)キリストの中で神の義とならせるのです。人は罪人であるだけでなく、罪そのものでさえありましたが、キリストの贖いを通して、神の義とされ、義なる神に和解させられました。そして、新創造とされて、神の永遠の目的のために、彼に生きるものとされます。使徒たちはそのようなキリストと、彼の驚くべき達成の輝かしいすべての結果を、彼の信者たち、すなわち、彼のからだを形成する肢体に供給することを、託されています。賛美と栄光が、永遠に彼にありますように! |
2コリ 6:1 注1 |
ここの「そして」は、継続を示します。第5章の最後の部分で(5:16―21)、使徒は、彼ら新契約の奉仕者たちが、主の新創造のために、和解の務めを託されたことについて語りました。この節から第7章の終わりで、彼は続けて、彼らがどのように働いたかについて語ります。彼らは、すべてに十分であり、すべてに円熟した、すべての状況に適合することができる神の命によって(いかなる賜物にもよらずに)、神と共に働きました。この命は、彼らの務めの遂行のために、いかなる種類の取り扱いにも耐え、いかなる環境も受け入れ、いかなる状況においても働き、いかなる種類の機会をも生かすことができます。 |
2コリ 6:1 注2 |
使徒たちは、彼らの務めに神によって任命されただけでなく、神と共に働いていました。彼らは神の同労者でした(Iコリント3:9)。 |
2コリ 6:1 注3 |
これは、第5章20節(5:20)で述べられている和解の働きです。 |
2コリ 6:1 注4 |
Iコリント第15章10節(Iコリント15:10)のノート1を参照。神の恵みは、常にわたしたちを神へ連れ戻します。神の恵みを無駄に受けることがないとは、文脈によると、神からそらされた状態のままでいるのではなく、神へ連れ戻されることを意味します。 |