出典 |
フットノート |
ガラ 2:18 注2 |
すなわち、損失と勘定し、ちりあくたと勘定する(ピリピ3:7―8)。これは、異邦人と食事を共にしないというユダヤ教の慣例を、ペテロが放棄したことを言います。 |
ガラ 2:18 注1 |
すなわち、ユダヤ教に戻る。これは、異邦人と食事を共にしないというユダヤ教の順守に、ペテロが戻ったことを言います。 |
ガラ 2:19 注3 |
すなわち、神聖な命の中で、神に対して義務を果たす。キリストの死の中で、わたしたちと律法との関係は終わりました。キリストの復活の中で、わたしたちは復活の命において、神に対して責任があります。 |
ガラ 2:19 注1 |
律法は、わたしたち罪人に、死ぬことを要求します。そしてその要求にしたがって、キリストはわたしたちのために、またわたしたちと共に死なれました。ですから、わたしたちは律法を通してキリストの中で、キリストと共に死んだのです。 |
ガラ 2:19 注2 |
すなわち、律法下にある義務、律法との関係は終わりました。 |
ガラ 2:20 注1 |
これは、どのようにしてわたしたちが、律法を通して律法に死んだかを説明します。神のエコノミーによれば、キリストが十字架につけられた時、わたしたちも彼の中に含まれていました。これは成就された事実です。 |
ガラ 2:20 注2 |
「もはやわたしではありません」とは、キリストが入ってきてわたしたちが出ていくという、交換された命を示すのではありません。この節の後半でパウロは、「わたしは・・・・生きている」と言いました。わたしたち再生された人には、古い「わたし」と新しい「わたし」があります。古い「わたし」は、すでに十字架につけられ(ローマ6:6)、「もはやわたしではない」とパウロが言うものです。新しい「わたし」は、「わたしは・・・・生きている」とパウロが言うものです。古い、終わらせられた「わたし」には、神性はありません。新しい「わたし」には、神が命として加えられています。古い「わたし」が復活し、神がそれに加えられて、新しい「わたし」となりました。一方で、パウロは終わらせられました。もう一方で、復活したパウロ、命としての神で再生されたパウロは、なおも生きていました。さらにパウロは、「もはやわたしではありません」と言いましたが、「キリストがわたしの中に生きておられるのです」とも言いました。生きているのはキリストでしたが、しかも彼は、パウロの中に生きておられました。この両者、キリストとパウロは、一つの命、一つの生活を持っていました。 |
ガラ 2:20 注3 |
わたしたちはキリストの中で、彼の死を通して死にました。しかし今や、彼は彼の復活を通して、わたしたちの中に生きておられます。彼がわたしたちの中に生きておられるのは、完全に彼が命を与える霊であることによります(Iコリント15:45後半)。この点は、続くすべての章で、十分に展開されます。そこでは、その霊はわたしたちが命として受けた方、その中で生きるべき方として示され、強調されています。 「わたし」という生まれながらの人は、律法を守って、完成されようとする傾向があります(ピリピ3:6)。ところが神は、わたしたちがキリストを生きることを願われます。それは、神がわたしたちの中で、キリストを通して表現されるためです(ピリピ1:20―21)。ですから、神のエコノミーは、「わたし」がキリストの死の中で十字架につけられ、そしてキリストが彼の復活の中で、わたしたちの中に生きられることです。律法を守るとは、わたしたちの生活の中で、律法をすべてのものを超えて高く上げることです。キリストを生きるとは、彼をわたしたちの生活の中心、あらゆるものとすることです。律法が一定の期間、神に用いられたのは、彼の選びの民をキリストのために保護し(3:23)、最終的に彼らをキリストに導くためでした(3:24)。それは彼らが、彼を命として受け入れ、彼を生きて、神の表現となるためです。キリストが来られたのですから、律法の機能は終わりました。そしてキリストが、神の永遠の目的を成就するために、わたしたちの生活の中で、律法と置き換わらなければなりません。 |
ガラ 2:20 注4 |
これは肉体の命ではなく、魂の命でもなく、霊的で神聖な命です。 |
ガラ 2:20 注8 |
神の御子はわたしたちを愛して、わたしたちのためにご自身を捨ててくださいました。それは、彼が神聖な命をわたしたちの中へと分け与えるためです。 |