出典 |
フットノート |
ガラ 2:20 注7 |
「キリスト」という称号は、おもにキリストの使命を示し、それは神の計画を遂行するためです。「神の御子」はキリストのパースンを示し、それは神の命をわたしたちの中へと分け与えるためです。わたしたちは信仰の中で神の命を生きていますが、その信仰は、神の御子、命を与える方の中にあります。 |
ガラ 2:20 注6 |
16節(16節)のノート1を参照。 |
ガラ 2:20 注5 |
わたしたちが神聖な命を生きるのは、肉体の命や魂の命を生きるように、見えるものや感覚によってではありません。神聖な命、わたしたちの霊の中の霊的な命を生きるのは、信仰を働かせることによってです。この信仰は、命を与える霊の臨在によって活気づけられます。 |
ガラ 2:21 注1 |
神の恵みは、キリスト、三一の神の化身が、命を与える霊を通して、神聖な命をわたしたちの中へと分け与えられたことです。この霊によって生きないのは、神の恵みを無にすることです。 |
ガラ 2:21 注2 |
キリストがわたしたちのために死なれたのは、わたしたちが彼の中で義を持つためであり、その義を通して神聖な命を受けるためです(ローマ5:18,21)。この義は律法を通してではなく、キリストの死を通してあります。 |
ガラ 2:21 注3 |
あるいは、理由もなく。もし義が律法を通してあるとすれば、キリストは理由もなく死んだことになります。しかしながら、義はキリストの死を通してあります。そしてキリストの死は、わたしたちを律法から分離しました。 |
ガラ 3:1 注1 |
十字架は、神のエコノミーにおける活動の中心です。この書簡でパウロは、律法にそらされた信者たちを十字架に連れ戻し、十字架につけられたキリストを見つめるようにと励ましていました。それは、彼らが決して律法にそらされないためでした。この書簡は、十字架につけられたキリストの完全な絵を見せています(1:4.2:19―21.3:13.5:24.6:14)。 キリストの十字架は、律法のすべての要求がキリストの死によって満たされたこと、そしてキリストが彼の死を通して、彼の命を解き放たれたことを示します。その命は、彼の復活の中でわたしたちの中へと分け与えられて、わたしたちを律法の下の束縛から解放しました。このことは、福音の言葉の中で、ガラテヤ人の目の前に、ありありと描き出されたのでした。どうしてこれを無視して惑わされ、押し流されて律法に戻ることができるでしょうか? 何と愚かなことでしょう! |
ガラ 3:2 注2 |
ガラテヤ人は、福音を聞くことを通して、十字架につけられたキリストを信じました。しかし彼らが受けたのはその霊でした。十字架につけられた方はキリストでした。しかし信者の中へと入られた方はその霊でした。信者の贖いのために十字架につけられたことでは、彼はキリストでした。しかし内住して信者の命となることでは、彼はその霊です。これはすべてを含む、命を与える霊であり、彼はすべてを含む、究極的な福音の祝福です。信者がそのような神聖な霊を受けるのは、信仰を聞くことによってであり、律法の行ないによるのではありません。彼が信者の中に入って、彼らの中で生きられるのは、彼らが律法を守ることによるのではなく、十字架につけられ、復活されたキリストにある彼らの信仰によってです。 この書簡の最初の二つの章には、神聖な啓示における、神のエコノミーの中心であるキリストがあります。ところが後半の四つの章には、わたしたちが経験の中で、神聖な命を持ち(第3章)、神から生まれ(第4章)、再生された命によって生き、歩き(第5章)、神聖な目的をわたしたちのゴールとする(第6章)その霊があります。こうして、わたしたちはキリストを、すべてを含む、命を与える霊として、絶えず享受します(5節前半)。 |
ガラ 3:2 注1 |
信者がキリストを信じる時、その霊を受けます。キリストとその霊を別々のものと考えるのは、重大な誤解です。再生の時に、わたしたちはキリストを信じ、その霊を受け、その霊で証印を押されました(エペソ1:13)。まさにその瞬間に、有機的結合が起こったのです。すなわち、わたしたちは三一の神へと接ぎ木され(ローマ11:17)、担保としてのその霊が(エペソ1:14)、わたしたちに対して福音の究極的な祝福となりました(14節)。この後、その霊を受けるのは生涯のこと、継続的なこととなります。神はその霊をわたしたちに、絶えず供給しておられます(5節)。 |
ガラ 3:2 注3 |
律法は、神の旧約エコノミーの中で、人と神との関係にとって基本的な条件でした(23節)。信仰は、神が人と共に新約エコノミーを遂行する唯一の道です(Iテモテ1:4)。律法は肉と関係があり(ローマ7:5)、肉の努力に依存します。その肉とは、まさに「わたし」の表現です。信仰はその霊と関係があり、その霊の活動に信頼します。その霊は、キリストの実際化です。旧約では、「わたし」と肉が律法を守ることで、重要な役割を果たしました。新約では、キリストとその霊が「わたし」と肉の地位を奪い、信仰が律法に置き換わります。それは、わたしたちがその霊によってキリストを生きるためです。肉によって律法を守るのは、人の天然の方法です。それは人の観念の暗やみの中にあり、その結果は死と邪悪です(ローマ7:10―11,24)。信仰を聞くことによってその霊を受けるのは、神の啓示された道です。それは神の啓示の光の中にあり、その結果は命と栄光です(ローマ8:2,6,10―11,30)。ですから、わたしたちは律法の行ないではなく、信仰を聞くことを重んじなければなりません。わたしたちがその霊を受けるのは、信仰を聞くことによってです。それは、わたしたちが神の約束された祝福にあずかり、キリストを生きるためです。この章の7(7節)、8(8節)、9(9節)、11(11節)、12(12節)、23(23節)、24(24節)、25節(25節)で述べられた信仰は、この信仰です(参照,1:23のノート2)。 |