出典 |
フットノート |
ガラ 3:6 注1 |
惑わされたガラテヤ人は、律法に連れ戻されました。そして、律法がモーセを通して与えられたために、モーセにすがりつきました。ところがパウロは彼らを、信仰の父、アブラハムに向かわせました。信仰は神の当初のエコノミーのものでしたが、律法は違犯のゆえに、後ほど付け加えられたものです(19節)。キリストが死を通して律法を成就された後、神は彼の民が、彼の当初のエコノミーに戻ることを願われました。アブラハムについて言えば、律法を守ることではなく、神を信じることです。新約のすべての信者も、そうであるべきです。 |
ガラ 3:7 注1 |
すなわち、その信仰。 |
ガラ 3:7 注2 |
律法の行ないは、人をモーセの弟子にします(ヨハネ9:28)。これは、命とは何の関係もありません。キリストにある信仰は、新約の信者を神の子たちとします。これは、完全に命の関係です。わたしたち、新約の信者は、堕落したアダムの子孫に生まれました。そしてアダムの中で、もろもろの違犯のゆえに、モーセの律法の下にいました。しかしわたしたちは、アブラハムの子たちに再生され、キリストの信仰によって、モーセの律法から解放されました。 |
ガラ 3:8 注1 |
「あなたの中で、すべての国民は祝福される」と、神がアブラハムに与えられた約束は、福音でした。それがアブラハムに宣べ伝えられたのは、キリストによって贖いが成就される前であるだけでなく、モーセを通して律法が与えられる前でもありました。神がアブラハムに約束されたことは、神がキリストを通して成就されたことと一致します。キリストは、アブラハムに与えられた神の約束の成就です。新約のエコノミーは、アブラハムに対する神の取り扱いの継続であって、モーセの律法とは何の関係もありません。新約の信者はすべて、この継続の中にいるべきであって、モーセを通して与えられた律法とは、何の関係も持つべきではありません。 |
ガラ 3:9 注1 |
すなわち、その信仰。 |
ガラ 3:9 注3 |
アブラハムは神の取り扱いの下で、神を喜ばせようとして働いていたのではなく、神を信じたのです。 |
ガラ 3:9 注2 |
キリストにある信仰は、神がアブラハムに約束された祝福、すなわち、約束されたその霊に、わたしたちをもたらします(14節)。 |
ガラ 3:10 注1 |
キリストにある信仰は、ガラテヤの信者たちをキリストにある祝福へともたらし、その霊の中にある命の恵みを享受させました。ところがユダヤ教宣教者は彼らを惑わして、律法ののろいの下に来させ、こうして彼らからキリストの享受を奪い取り、彼らを恵みから落ちるようにしました(5:4)。 |
ガラ 3:11 注1 |
文字どおりには、の中で。「の力の中で、の効力によって」を意味します(ダービーの新訳)。 |
ガラ 3:11 注2 |
文字どおりには、信仰から(out of)。「律法によって」と対比しています。 |