出典 |
フットノート |
ガラ 3:12 注1 |
文字どおりには、の中で。「の効力によって」を意味します。 |
ガラ 3:13 注1 |
キリストは、わたしたちの身代わりとして十字架上で、わたしたちのためにのろいを負ってくださっただけでなく、のろいとなられました。律法ののろいは、人の罪から生じました(創3:17)。キリストは、わたしたちの罪を十字架上で取り除いて、わたしたちを律法ののろいから贖い出してくださいました。 |
ガラ 3:13 注2 |
すなわち、十字架。 |
ガラ 3:14 注1 |
神がアブラハムに約束された祝福は(創12:3)、地のすべての国民に与えられたものです。この約束は成就され、祝福はキリストの中で、十字架による彼の贖いを通して諸国民に及びました。 |
ガラ 3:14 注4 |
文字どおりには、その霊の約束。 |
ガラ 3:14 注3 |
その霊は、神がアブラハムに約束されたすべての国民に対する祝福であり、キリストにある信仰を通して信者たちが受けたことを、この節は示しています。その霊は、5節(5節)のノート2で述べられたように、調合された霊であり、実は受肉、十字架、復活、昇天、降下を通して、その三一の中で手順を経られた神ご自身です。それは、わたしたちが彼をわたしたちの命、またあらゆるものとして受けるためです。これが神の福音の焦点です。 神がアブラハムに約束された祝福の物質的な面は良き地であり(創12:7.13:15.17:8.26:3―4)、それはすべてを含むキリストの予表でした(参照,コロサイ1:12とノート2)。キリストが最終的に、すべてを含む命を与える霊として実際化されているのですから(Iコリント15:45.IIコリント3:17)、約束された霊の祝福は、アブラハムに約束された地の祝福と一致しています。実は、わたしたちが経験するキリストの実際化としてのその霊は、わたしたちが享受する神の満ちあふれる供給の源としての良き地です。 |
ガラ 3:14 注2 |
福音の中で、わたしたちが受けた祝福は、赦し、洗い、清めだけではありません。それにも増して、わたしたちは最大の祝福、すなわち三一の神―父、子、霊を受けました。彼は手順を経て、すべてを含む、命を与える霊となり、最も主観的な方法でわたしたちの中に住み、わたしたちの享受となられます。わたしたちがそのようなすべてを含む方を、日ごとの分け前として享受することができるとは、何という祝福でしょう! |
ガラ 3:16 注1 |
キリストは子孫です。そしてその子孫は、約束を受け継ぐ相続人です。ここで、キリストは約束を受け継ぐ唯一の子孫です。ですから、約束の祝福を受け継ぐために、わたしたちはキリストと一でなければなりません。彼を離れては、神がアブラハムに与えられた約束を、受け継ぐことはできません。神の目に、アブラハムはただ一人の子孫、すなわち、キリストを持っているだけです。わたしたちは、アブラハムに与えられた約束にあずかるために、キリストの中にいなければなりません。彼は約束を受け継ぐ子孫であるだけでなく、わたしたちが受け継ぐ約束の祝福でもあります。ガラテヤの信者たちが、キリストから律法に戻るのは、相続者と約束の嗣業の両方を失うことを意味しました。 |
ガラ 3:17 注1 |
これは、神がアブラハムに与えられた約束が、約束よりもさらに堅固な契約となったことを示します。言葉、約束、契約は、アブラハムに宣べ伝えられた福音です。福音は契約であり、契約は約束であり、約束は神が語られた言葉です。福音は新約の事柄ですが、新約がアブラハムに与えられた神の約束の継続、反復であることを理解するのは、重要です。 |
ガラ 3:17 注3 |
神が創世記第12章でアブラハムに約束を与えられた時から、出エジプト記第20章でモーセを通して律法を与えられた時までが、勘定されています。この期間は神によって、イスラエルの子たちがエジプトに居住した時と考えられています(出12:40―41)。創世記第15章13節(創15:13)と使徒行伝第7章6節(使徒7:6)で述べられている四百年は、創世記第21章でイシマエルがイサクをあざ笑った時から、出エジプト記第12章で、イスラエルの子たちがエジプト人の暴虐から脱出した時までを勘定しています。これは、アブラハムの子孫が異邦人から迫害を受けた期間です。 |