出典 |
フットノート |
ガラ 3:17 注2 |
神の約束が、最初にアブラハムに与えられました。律法は四百三十年後に来ました。約束は永遠でしたが、律法は一時的でした。後から来た一時的な律法は、最初に与えられた永遠の約束を、無効にすることはできません。ガラテヤ人は、最初の永遠の約束を離れて、後から来た一時的な律法に逆戻りしました。 |
ガラ 3:18 注1 |
律法は与えません。それは要求するだけです。嗣業は律法によるのではなく、約束によります。ですから、嗣業はアブラハムに、約束を通して恵み深く与えられました。 |
ガラ 3:19 注1 |
律法は、神のエコノミーの起点にはありませんでした。それは神のエコノミーが進行する中で、人の違犯のゆえに付け加えられたものであって、神が約束された子孫であるキリストが、来られる時までのものです。律法が人の違犯のゆえに付け加えられたものである以上、その違犯が取り去られた時には、除かれるべきです。そしてキリストであるその子孫が来られたからには、律法は終わらなければなりません。 |
ガラ 3:19 注3 |
人なるモーセ。 |
ガラ 3:19 注2 |
律法は、御使いたちを通して、一人の仲介者の手にあって定められたのですから、約束とは異なり、神が直接、人に与えられたのではありません。ですから律法は、神のエコノミーの中では主要なものではなく、二次的なものです。 |
ガラ 3:20 注1 |
律法には両当事者、神とイスラエルの子たちとの間に、一人の仲介者があります。約束には媒介はなく、それを受ける者に直接関係する神があるだけです。律法の責任は、一当事者だけでなく、両当事者にかかりますが、約束の責任は、与える方、神にだけかかります。ですから、律法は約束に劣ります。ガラテヤ人は、まさったものを放棄して、劣ったものに戻ったのです。 |
ガラ 3:21 注1 |
律法は要求し、罪定めすることができるだけでした。それは、命を与えることができません(参照,ローマ7:10のノート1)。律法には命がなく、戒めがあるだけです。命はキリストの中にあります(ヨハネ1:4)。彼は命を与える霊であり(Iコリント15:45)、命を与えることのできる唯一の方です。命を与えることは、使徒の啓示の焦点です。わたしたちは、命を与える方だけを取るべきです。 |
ガラ 3:21 注2 |
命が与えられるためには、義がなければなりません。ところが義は、律法によるのではなく、キリストの中にあります(ローマ5:17―18)。ですから、律法は命を与えることができません。さらに、律法は命を与えることができないのですから、律法の要求を満たして、義を生み出す力がありません。この意味においても、義は律法によるのではありません。 |
ガラ 3:22 注2 |
文字どおりには、すべてのもの、すなわち、全人類。 |
ガラ 3:22 注1 |
獄吏が囚人たちを閉じ込めるように。聖書は、ここで人格化されており、全人類を罪の下に閉じ込めました。それは、捕らえられた罪人が律法を守るためではなく、神の約束が、キリストを信じることによって、信者たちに与えられるためです。罪の下に閉じ込められるとは、23節(23節)に啓示されているように、律法の下に閉じ込められることです。 |