出典 |
フットノート |
ガラ 3:22 注3 |
あるいは、イエス・キリストの信仰(参照,ローマ3:22のノート1)。 |
ガラ 3:23 注1 |
第1章23節(1:23)のノート2と第3章2節(3:2)のノート3を参照。25節(25節)も同じ。信仰は、キリストが来られるまで啓示されませんでした(参照,ヨハネ1:12.3:16,18)。 |
ガラ 3:23 注2 |
後見の中に守られて、監督の中に守られて。 |
ガラ 3:23 注1 |
第1章23節(1:23)のノート2と第3章2節(3:2)のノート3を参照。25節(25節)も同じ。信仰は、キリストが来られるまで啓示されませんでした(参照,ヨハネ1:12.3:16,18)。 |
ガラ 3:23 注4 |
あるいは、をもくろんで。これは、閉じ込めるのには目的があることを示します。すなわち、それは信仰という結果になり、守られている人を信仰にもたらすのです。 |
ガラ 3:23 注3 |
律法の下に閉じ込められて守られるのは、羊がおりの中に閉じ込められているようなものです(ヨハネ10:1,16)。神のエコノミーの中で、律法は、キリストが来られるまで、神の選びの民を守る囲いとして用いられました(参照,ヨハネ10:1のノート2)。キリストが来られたからには、神の民はもはや、律法の下に守られるべきではありません(参照,ヨハネ10:9のノート2)。 |
ガラ 3:24 注1 |
あるいは、護衛者、保護者、後見人。未成年の子供の世話をして、学校の教師の下へ導く人。律法は神によって、後見人、保護者、養育係として用いられ、神の選びの民を、キリストが来られるまで見守っていましたが、キリストが来られた時、彼らをキリストに導きます。それは、彼らが信仰によって義とされ、神が約束して契約を立てられた祝福にあずかるためです。 |
ガラ 3:25 注1 |
キリストにある信仰が来たからには、わたしたちはもはや、律法の保護の下にいる必要はありません。 |
ガラ 3:26 注2 |
キリストにある信仰は、わたしたちをキリストへともたらして、キリストと一つにします。彼の中で、子たる身分を得ます。わたしたちは信仰を通して、キリストに結合されて一とならなければなりません。それはわたしたちが、彼にあって神の子たちとなるためです。 |
ガラ 3:26 注1 |
すでに成長していて、奴隷の保護の後見の下にいない成人した子。旧約の下では、神の選びの民は、幼子と見なされました。今や新約の下では、成人した子と見なされて、約束された祝福、すべてを含むキリストの霊を受け継ぎます。 |