出典 |
フットノート |
ガラ 5:7 注1 |
教理ではなく、キリストの中の実際です。使徒はこのように、ガラテヤ人に宣べ伝えました。 |
ガラ 5:8 注1 |
ユダヤ教宣教者の勧誘する教えです。これはガラテヤ人をキリストからそらして、律法の順守に向けました。 |
ガラ 5:9 注1 |
「パン種」は、ユダヤ教宣教者の偽りの教えです(参照,マタイ16:12)。そして「かたまり全体」は、すべての信者の一団、すなわち召会です。 |
ガラ 5:9 注1 |
「パン種」は、ユダヤ教宣教者の偽りの教えです(参照,マタイ16:12)。そして「かたまり全体」は、すべての信者の一団、すなわち召会です。 |
ガラ 5:11 注1 |
割礼は、人の肉の対処を予表しました。十字架は、この対処の実際です(コロサイ2:11―12)。ユダヤ教宣教者は、ガラテヤ人を影に戻そうと努めていました。使徒パウロは、彼らを実際の中にとどめておこうと苦闘しました。 |
ガラ 5:12 注1 |
使徒パウロは、割礼を主張してガラテヤ人をかき乱したユダヤ教宣教者が、彼らの前の皮だけでなく、むしろ自分自身を切り捨てたらよいのに、と思いました。かき乱し、妨害する彼らの自己は、切り捨てられる必要がありました。 |
ガラ 5:13 注1 |
制限のない自由は、常に肉の放縦という結果になります。制限のある自由は、人を愛し、愛を通して、奴隷として人に仕えるように導きます(参照,14節)。 |
ガラ 5:13 注2 |
第3章3節(3:3)のノート2を参照。 |
ガラ 5:13 注3 |
文字どおりには、奴隷として仕える。 |
ガラ 5:16 注2 |
この章の文脈によれば、ここのその霊は、聖霊であるに違いありません。この聖霊は、わたしたちの再生された霊の中に住んで、それと混ざり合われます。その霊によって歩くとは、わたしたちの歩みが、わたしたちの霊の内側から、聖霊によって規制されることです。これは、わたしたちの歩みが、肉の領域で、律法によって規制されることと対比しています。第3章3節(3:3)のノート2を参照。 肉は、堕落した三部分から成る人の極限的表現です(創6:3)。その霊は、手順を経た三一の神の究極的実際化です(ヨハネ7:39)。キリストの贖いとその霊の再生する働きのゆえに、神の分与を受けたわたしたちは、肉によって、わたしたちの堕落した人によってではなく、その霊によって、手順を経た三一の神によって、歩くことができます。パウロが本書を書いたのは、消極面で、そらされたガラテヤの信者たちを律法から救い出し、さらに積極面で、信者たちがすべてを含む、命を与える霊を彼らの霊の中に持っていることを認識させ、彼らがこの霊の中で生き、歩き、行動するためです。 |