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出典

フットノート

ガラ 5:20 注3 党派心、分裂、分派、ねたみは一組のもので、派閥と関係があります。
ガラ 5:20 注4 同じギリシャ語が、ペテロの第二の手紙第2章1節(IIペテロ2:1)では異端となっています。ここでは、意見の学派(ダービーの新訳)、あるいは分派を意味します。
ガラ 5:21 注1 泥酔と宴楽は一組のもので、放蕩と関係があります。
ガラ 5:21 注2 神の王国を継ぐとは、勝利を得た信者たちへの報酬として、来たるべき王国を享受することを言います。それは信者の救われることとは違い、救いに加えられた報酬です(参照,エペソ5:5のノート3とヘブル12:28のノート1)。
ガラ 5:22 注1 肉の行なうことは、命のない働きです(19節)。その霊が生み出すものは、命に満ちた実です。その霊の実は、わたしたちの内側の命であるその霊の、さまざまな表現です。それはここで事例として、九つの項目だけが挙げられています。その霊の実には、もっと多くの項目があります。例えば、謙虚(エペソ4:2ピリピ2:3)、同情(ピリピ2:1)、敬虔(IIペテロ1:6)、義(ローマ14:17エペソ5:9)、聖(エペソ1:4コロサイ1:22)、純粋(マタイ5:8)などです。エペソ人への手紙第4章2節(エペソ4:2)とコロサイ人への手紙第3章12節(コロサイ3:12)では謙虚が、ここに挙げられている柔和とは別の徳として述べられています。ローマ人への手紙第14章17節(ローマ14:17)では、義、平和、喜びが、今日、神の王国のすべての面です。しかしここでは、平安と喜びが挙げられているだけで、義はありません。ペテロの第二の手紙第1章5節から7節(IIペテロ1:5―7)では、敬虔と忍耐が、自制と愛と共に、霊的成長の特徴として数えられていますが、それらはここに挙げられていません。マタイによる福音書第5章5節から9節(マタイ5:5―9)では、義、あわれみ、純粋が、柔和と平和と共に、今日、王国の実際の条件とされています。しかしながら、その三つの徳は、ここでは全く言われていません。
 肉が古いアダムの表現であるように、その霊はキリストの実際化です。実際上、キリストはその霊として生かし出されます。ここに挙げられているその霊の実の各項目は、キリストのもろもろの特徴そのものです。
ガラ 5:24 注1 22節(22節)の「しかし」は、その節のその霊の実と、19節(19節)の肉の働きとを対比します。この節の「しかし」は、ここの肉を十字架につけることと、19節(19節)の肉の働きとを対比します。
ガラ 5:24 注3 本書は、誤用された律法がキリストに相対し(2:16)、肉の欲することがその霊に逆らうこと(17節)を啓示します。十字架は、律法を守る傾向がある「わたし」と(2:20)、その霊に逆らって欲する肉を無効にしました。それは、キリストが律法に置き換わり、その霊が肉に置き換わるためです。神は、わたしたちが肉によって律法を守るのではなく、その霊によってキリストを生きることを願われます。
ガラ 5:24 注2 古い人を十字架につけること(ローマ6:6)と、「わたし」を十字架につけること(2:20)は、わたしたちによって成し遂げられたのではありません。しかしここでは、わたしたちが肉をその情と欲と共に十字架につけてしまった、と言っています。古い人と「わたし」は、わたしたちという人です。肉は、実際生活における、わたしたちという人の表現です。わたしたちの古い人と「わたし」が十字架につけられたことは、キリストが十字架上で成就された事実です。ところが、わたしたちの肉をその情と欲と共に十字架につけることは、その事実を実行的に経験することです。この実行的に経験することは、キリストが成就された十字架を、その霊を通して、わたしたちが適用することによって成し遂げられなければなりません。これはその霊によって、わたしたちの情欲に満ちた体の行ないを、その邪悪な肢体と共に死に渡すことです(ローマ8:13後半.コロサイ3:5)。
 十字架の経験には、三つの面があります:(1)キリストによって成就された事実(ローマ6:6ガラテヤ2:20).(2)その成就された事実をわたしたちが適用すること(24節).(3)十字架を負うことによって、わたしたちが適用したことを日ごとに経験すること(マタイ16:24ルカ9:23)です。
ガラ 5:25 注1 その霊によって生きるとは、わたしたちの生活をその霊に依存させ、律法によってではなく、その霊によって規制させることです。これは、16節(16節)のその霊によって歩くことと等しいですが、この節のその霊によって歩くこととは異なります(参照,ノート2)。
ガラ 5:25 注2 文字どおりには、規則にしたがって歩く。ギリシャ語は、「原則を順守する」、「原則にしたがって歩く」ことを意味します。ですから、路線の中を歩く、足並みをそろえて軍列の中で行進する、歩調を合わせる、そこから派生して、秩序正しく、規律よく歩く、という意味です(参照,6:16.使徒21:24.ローマ4:12とノート.ピリピ3:16とノート4)。
 16節(16節)の歩みとこの節の歩みはいずれもその霊により、その霊によって規制されます。前者は一般的な、日ごとの歩みです。後者は、神の唯一の目標を、生活の方向と目的とする歩みであり、その霊を基本的な原則、基礎的な規範として従う歩みです。そのような歩みは、新創造の中を生きることによって(6:16とノート2)、キリストを獲得するために彼を追い求めることによって(ピリピ3:12とノート)、召会生活を実行することによって(ローマ12:1―5エペソ4:1―16)推し進められます。こうして、召会のための神の意図は、キリストにあって成就されるのです。
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