出典 |
フットノート |
ガラ 6:14 注2 |
この世はわたしたちに対して十字架につけられ、わたしたちもこの世に対して十字架につけられました。これは直接に起こったのではなく、十字架につけられたキリストを通してです。 |
ガラ 6:14 注3 |
次の節はこの節の説明であって、ここのこの世が、おもに宗教の世界を言っていることを証明します。パウロは本書で、宗教的な人々を取り扱いました。彼らは神の事柄に関心がありましたが、誤って導かれ、誤りの中にあったのです。そして彼らの宗教は、この世となってしまいました。わたしたちは十字架によって、宗教の世界から分離され、こうして新創造の中に生きるよう、資格づけられました。 |
ガラ 6:15 注1 |
旧創造は、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ4:22)、わたしたちの生まれながらの天然の人であって、神の命と神聖な性質がありません。新創造は、キリストにある新しい人(エペソ4:24)、その霊によって再生された人であり(ヨハネ3:6)、神の命と神聖な性質がその中に造り込まれており(ヨハネ3:36.IIペテロ1:4)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ3:10―11)、新しい構成となったものです。これは召会の性質、召会の内なる、内在的、有機的な構成要素です。こうして新創造は、神の子たちから成る、団体的で神聖な子たる身分です(3:26.4:5,7)。それはキリストの贖い、その霊の再生、神がご自身をわたしたちの中に分与されることを通して、そして、わたしたちが団体的にこの新しい人として、三一の神との有機的結合の中へと入ることを通して、生み出されました。 旧創造が古いのは、神の要素がないからです。新創造が新しいのは、神をその要素としているからです。わたしたちはまだ旧創造ですが、その霊によって歩く時(5:16,25)、新創造の実際を経験します。本書のおもな結果は、わたしたちが新創造であること、そして三一の神との有機的結合を通して、新創造によって生きるべきであることです。この新創造は、神の永遠の目的を成就します。すなわち、神の子たる身分の中で神を表現します。 割礼は律法の規定です。新創造は、神聖な性質のある命の傑作です。前者は死んだ文字のものであり、後者は生ける霊のものです。ですから、新創造は重要です。本書は、律法も割礼も無力であることを暴露します。律法は命を分け与えて、わたしたちを再生させることはできません(3:21)。また割礼は、わたしたちに活力を与えて、新創造を生きさせることはできません(5:6)。ところが、わたしたちの中に啓示されている神の御子は(1:16)、わたしたちを生かして、新創造とすることができます。またわたしたちの中に生きておられるキリストは(2:20)、わたしたちに彼の命の豊富を与えて、新創造を生きさせることができます。律法はキリストに置き換えられ(2:19―20)、割礼は、キリストの十字架によって成就されました(14節)。ですから、割礼も無割礼も重要ではなく、ただキリストをその命とする新創造だけが重要です。新創造であることは、その霊へとまくための理由であり、結果です(8節)。律法を守ることと割礼を行なうことは、肉へとまくことです。それらは旧創造を変化させません。しかしその霊へとまくことは、わたしたちを新創造にします。それは、その霊によって再創造され、神聖な命によって造り変えられ、手順を経た三一の神の豊富な要素が、ご自身をわたしたちと混ざり合わせることによって構成されたものです。 |
ガラ 6:15 注2 |
文字どおりには、何でもありません。 |
ガラ 6:15 注1 |
旧創造は、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ4:22)、わたしたちの生まれながらの天然の人であって、神の命と神聖な性質がありません。新創造は、キリストにある新しい人(エペソ4:24)、その霊によって再生された人であり(ヨハネ3:6)、神の命と神聖な性質がその中に造り込まれており(ヨハネ3:36.IIペテロ1:4)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ3:10―11)、新しい構成となったものです。これは召会の性質、召会の内なる、内在的、有機的な構成要素です。こうして新創造は、神の子たちから成る、団体的で神聖な子たる身分です(3:26.4:5,7)。それはキリストの贖い、その霊の再生、神がご自身をわたしたちの中に分与されることを通して、そして、わたしたちが団体的にこの新しい人として、三一の神との有機的結合の中へと入ることを通して、生み出されました。 旧創造が古いのは、神の要素がないからです。新創造が新しいのは、神をその要素としているからです。わたしたちはまだ旧創造ですが、その霊によって歩く時(5:16,25)、新創造の実際を経験します。本書のおもな結果は、わたしたちが新創造であること、そして三一の神との有機的結合を通して、新創造によって生きるべきであることです。この新創造は、神の永遠の目的を成就します。すなわち、神の子たる身分の中で神を表現します。 割礼は律法の規定です。新創造は、神聖な性質のある命の傑作です。前者は死んだ文字のものであり、後者は生ける霊のものです。ですから、新創造は重要です。本書は、律法も割礼も無力であることを暴露します。律法は命を分け与えて、わたしたちを再生させることはできません(3:21)。また割礼は、わたしたちに活力を与えて、新創造を生きさせることはできません(5:6)。ところが、わたしたちの中に啓示されている神の御子は(1:16)、わたしたちを生かして、新創造とすることができます。またわたしたちの中に生きておられるキリストは(2:20)、わたしたちに彼の命の豊富を与えて、新創造を生きさせることができます。律法はキリストに置き換えられ(2:19―20)、割礼は、キリストの十字架によって成就されました(14節)。ですから、割礼も無割礼も重要ではなく、ただキリストをその命とする新創造だけが重要です。新創造であることは、その霊へとまくための理由であり、結果です(8節)。律法を守ることと割礼を行なうことは、肉へとまくことです。それらは旧創造を変化させません。しかしその霊へとまくことは、わたしたちを新創造にします。それは、その霊によって再創造され、神聖な命によって造り変えられ、手順を経た三一の神の豊富な要素が、ご自身をわたしたちと混ざり合わせることによって構成されたものです。 |
ガラ 6:16 注2 |
新創造であることの規範です。これは、その霊によって、信仰を通して生き、三一の神を命と生活として持つことであって、規定を順守して律法を守ることではありません。この規範によって歩くとは、その霊によって歩くことです(5:25)。 |
ガラ 6:16 注1 |
第5章25節(5:25)のノート2を参照。 |
ガラ 6:16 注4 |
すなわち、真のイスラエルです(ローマ9:6後半.2:28―29.ピリピ3:3)。それは、キリストにあるすべての異邦人信者とユダヤ人信者を含みます。彼らはアブラハムの真の子たち(3:7,29)、信仰の家族(10節)、新創造にある人たちです。彼らは「この規範」によって歩き、神のかたちを表現し、神の権威を執行します。これは、ヤコブが、イスラエル、神の王子、勝利者へと造り変えられたことで予表されています(創32:27―28)。 |
ガラ 6:16 注3 |
パウロは本書を、恵みと平安で始めました(1:3)。ところが彼は、あわれみと恵み(18節)の前に平安を述べて、締めくくっています。平安は、恵みが生み出した状態です。わたしたちは、あわれみと恵みを受け続ける必要があります。そうすれば、平安の状態に住むことができます。 |
ガラ 6:17 注1 |
所有主を示すために、奴隷に押された焼き印です。キリストの奴隷、パウロ(ローマ1:1)にとって、焼き印は、彼の主人への忠信な奉仕の中で、彼が受けた体の傷でした(IIコリント11:23―27)。霊的には、それは彼が生きた生活、主イエスがこの地上で生きられたのと同じ生活の特徴を象徴します。そのような生活は、絶えず十字架につけられており(ヨハネ12:24)、神のみこころを行ない(ヨハネ6:38)、自分の栄光ではなく、神の栄光を求め(ヨハネ7:18)、十字架の死に至るまでも、神に服従し、従順です(ピリピ2:8)。使徒は主の命の特徴を焼き印として帯びつつ、主イエスの模範に従いました。このことで、彼はユダヤ教宣教者と絶対的に異なっていました。 |