出典 |
フットノート |
エペソ 3:17 注2 |
信仰は、見えない事柄を実体化することです(ヘブル11:1)。キリストの内住は、奥義的であり抽象的です。わたしたちはそれを、肉体の感覚によってではなく、信仰の感覚によって認識します。 |
エペソ 3:17 注1 |
わたしたちの心は、魂の各部分―思い、感情、意志に、わたしたちの霊の主要部分である良心を加えたものから成っています。これがわたしたちの内なる部分です。再生を通して、キリストはわたしたちの霊の中に入ってこられました(IIテモテ4:22)。その後、わたしたちは彼に、心のあらゆる部分へと広がっていただくようにすべきです。わたしたちの心は内なる各部分の総合計であり、内なる存在の中心ですから、キリストがわたしたちの心の中に彼のホームを造られる時、彼は内なる部分全体を制御し、内なるあらゆる部分にご自身を供給し、増強してくださいます。 |
エペソ 3:17 注4 |
キリストを経験するためには、信仰と愛が必要です(Iテモテ1:14)。信仰は、わたしたちにキリストを把握させ、愛は、彼を享受することができるようにします。信仰も愛も、わたしたちのものではなく、彼のものです。彼の信仰が、彼を信じるわたしたちの信仰となり、彼の愛が、彼を愛するわたしたちの愛となります。わたしたちは、彼の愛の中に根ざし、土台づけられる時、彼の命の中で成長し、建造されます。 |
エペソ 3:17 注3 |
わたしたちは神の耕された地、神の建物です(Iコリント3:9)。わたしたちは神の耕された地として、成長するために根ざす必要があり、神の建物として、建造されるために土台づけられる必要があります。 |
エペソ 3:18 注2 |
キリストの大きさを把握するためには、すべての聖徒を、個人的にではなく、団体的に必要とします。 |
エペソ 3:18 注3 |
広さ、長さ、高さ、深さは、キリストの大きさです。わたしたちはキリストを経験する時、まず彼であることの広さを経験し、次にその長さを経験します。これは平面的です。キリストの中で前進する時、わたしたちは彼の豊富の高さと深さを経験します。これは垂直的です。わたしたちのキリスト経験は、立方体のように、三次元にならなければならず、直線のように、一次元であってはなりません。わたしたちがキリストを経験する時、前後、上下に行かなければなりません。そうすれば最終的に、わたしたちのキリスト経験は、堅固な「立方体」になるでしょう。このように経験するなら、わたしたちは堕落することも破壊されることもあり得ません。 |
エペソ 3:18 注1 |
あるいは、理解する、徹底的に捕らえる。 |
エペソ 3:19 注1 |
キリストの愛は、キリストご自身です。キリストが計り知れないように、彼の愛も計り知れません。ですから、それは知識を超越しています。それでもわたしたちは、それを経験することによって、知ることができます。 |
エペソ 3:19 注4 |
父(14節)は、その霊(16節)を通して、御子キリスト(17節)が、わたしたちの心の中に彼のホームを造ることができるように、という使徒の祈りに答えて、成就されます。こうして、わたしたちは神の、すなわち三一の神の豊満へと満たされます。これは、わたしたちの全存在の中へと、三一の神が分与された結果です。 |
エペソ 3:19 注3 |
新約では、豊満は、豊富が満ち満ちて表現されたものです。こういうわけでパウロは、キリストの計り知れない豊富を語り(8節)、キリストの豊満を語るのです(1:23.4:13)。キリストの豊富は、キリストであるすべて、彼が持っているもの、彼が達成し、到達し、獲得したもののすべてです。キリストの豊満は、わたしたちがこれらの豊富を享受した結果であり、出てきたものです。キリストの豊富がわたしたちの中に新陳代謝的に消化される時、それはわたしたちを、キリストの豊満、キリストのからだなる召会に構成して、彼を表現させます。この表現は、まず第1章23節(1:23)でキリストの豊満です。次にこの節で、それは神の豊満です。なぜなら、神の化身であるキリストの豊満は、三一の神の豊満であるからです。 |