出典 |
フットノート |
エペソ 4:23 注1 |
新しくされることは、わたしたちがキリストのかたちに造り変えられるためです(ローマ12:2.IIコリント3:18)。 |
エペソ 4:24 注5 |
ここの定冠詞は強調です。古い人と関係のある22節(22節)のあの欺きが、サタンの人格化であるように、新しい人と関係のあるここのあの実際は、神の人格化です。あの欺きは悪魔であり、あの実際は神です。この実際は21節(21節)で述べられているように、イエスの生活の中に展覧されました。イエスの生活の中で、あの実際の義と聖がいつも現されていました。新しい人は、この実際の義と聖の中で創造されました。この実際は、神の実際化であり表現です。 |
エペソ 4:24 注4 |
義とは、神の義なる道にしたがって、神と人に対して正しいことです。聖とは、神の前に敬虔であり、信心深いことです(参照,ルカ1:75のノート1)。義はおもに人に対してであり、聖はおもに神に対してです。 |
エペソ 4:24 注4 |
義とは、神の義なる道にしたがって、神と人に対して正しいことです。聖とは、神の前に敬虔であり、信心深いことです(参照,ルカ1:75のノート1)。義はおもに人に対してであり、聖はおもに神に対してです。 |
エペソ 4:24 注3 |
古い人は、外面的に神のかたちにしたがって創造されました(創1:26―27)が、神の命と性質はありませんでした。しかし新しい人は、内面的に神ご自身にしたがって創造され、神の命と性質を持っています(コロサイ3:10)。 |
エペソ 4:24 注2 |
新しい人はキリストのものです。それは彼のからだであり、十字架において彼の中で創造されました(2:15―16)。それは個人的ではなく、団体的です(コロサイ3:10―11)。この団体的な新しい人の中で、キリストはすべてであり、すべての中におられます。彼はすべての人であり、すべての人の中におられます(参照,コロサイ3:11のノート9)。 本書はまず、召会がキリストのからだ(1:22―23)、神の王国、神の家族(2:19)、神の宮、神の住まい(2:21―22)であることを啓示します。ここでそれはさらに進んで、召会が新しい人であることを啓示します。これは、召会の最も高い面です。召会は、召し出された人々の会衆です。これは召会の初歩の面です。ここから、使徒はさらに進んで、神の王国の同じ国籍の者、神の家族の者たちを述べています。これらは初歩の面よりも高いのですが、キリストのからだとしての召会ほど高くはありません。ところが新しい人は、キリストのからだよりもさらに高いのです。ですから、召会は単に信者の集まり、天的市民の王国、神の子たちの家族であるだけでなく、キリストのからだだけでもありません。神の永遠の目的を成就するのは、究極的、極限的な面である新しい人においてです。キリストのからだとしての召会は、キリストをその命として必要とします。ところが新しい人としての召会は、キリストをそのパースンとして必要とします。この新しい団体の人は、イエスが地上で生きられたような生活を生きるべきです。それは、神を表現し、神が実際であると人に認識させる実際の生活です。ですから、新しい人は、この区分(17―32節)における、使徒の勧告の焦点です。 |
エペソ 4:24 注1 |
わたしたちが新しい人を着たのは、バプテスマにおいてでした(ローマ6:4後半)。 |
エペソ 4:25 注1 |
25節から32節(25―32節)は、キリストを学ぶことにおけるわたしたちの実行上の日常生活を記述しています。 |
エペソ 4:25 注2 |
「偽り」は、性質において偽っているあらゆるものを言います。なぜなら、わたしたちが古い人を脱ぎ捨てた時、性質において偽りのものもすべて脱ぎ捨ててしまったからです。ですから、わたしたちは真理を、すなわち真実であることを語るのです。 |
エペソ 4:25 注2 |
「偽り」は、性質において偽っているあらゆるものを言います。なぜなら、わたしたちが古い人を脱ぎ捨てた時、性質において偽りのものもすべて脱ぎ捨ててしまったからです。ですから、わたしたちは真理を、すなわち真実であることを語るのです。 |