出典 |
フットノート |
エペソ 4:26 注1 |
怒ることは罪ではありませんが、罪を犯す可能性があります。わたしたちは怒りの中に居続けるべきではなく、日が暮れる前に怒りを捨てるべきです。 |
エペソ 4:26 注2 |
あるいは、腹立たしさ。 |
エペソ 4:27 注1 |
文脈によれば、怒りの中に居続けるのは、悪魔に所を得させることです。わたしたちは何事においても、決して彼に所を得させてはなりません。 |
エペソ 4:28 注1 |
このような高い啓示の書簡でさえ、使徒は依然として、盗みや怒りなどの、低い、実行上の事柄に触れます。 |
エペソ 4:28 注2 |
盗みは、おもに怠惰とむさぼりに基づきます。ですから、使徒は、盗む者は怠けていないで労苦するように、そしてむさぼっていないで得たものを人に分け与えるように、と命じます。 |
エペソ 4:28 注2 |
盗みは、おもに怠惰とむさぼりに基づきます。ですから、使徒は、盗む者は怠けていないで労苦するように、そしてむさぼっていないで得たものを人に分け与えるように、と命じます。 |
エペソ 4:28 注3 |
あるいは、良いこと(参照,テトス3:8, 14)。 |
エペソ 4:29 注1 |
文字どおりには、腐った。有害な、無礼な、価値のないものを意味します。 |
エペソ 4:29 注2 |
わたしたちの会話は、人を腐敗させるのではなく、人を建造すべきです。 |
エペソ 4:29 注3 |
恵みは、わたしたちの享受と供給としてのキリストです。わたしたちの言葉は、そのような恵みを人に伝達すべきです。人を建造する言葉は、いつもキリストを恵みとして、聞く人たちに供給します。 17節から32節(17―32節)における使徒の勧告は、恵みと実際(21,24,29節)をその基本的要素としています。使徒は、イエスが生きられたように、わたしたちが恵みと実際に満ちた生活を生きることを求めます(ヨハネ1:14,17)。恵みはわたしたちの享受のために与えられた神であり、実際はわたしたちの実際として啓示された神です。わたしたちは実際を生き、語る時(21,24節)、神を実際として表現します。その時、人は神を恵みとして受け、彼らの享受とします(29節)。 |