出典 |
フットノート |
エペソ 5:1 注1 |
わたしたちが神の愛する子供たちであるので、神に倣う者となることができるとは、何という栄光な事実でしょう! 神の子供たちとして、わたしたちは彼の命と性質を持っています。わたしたちは、天然の命によってではなく、彼の神聖な命によって彼に倣うのです。わたしたち神の子供が、彼のように完全であることができるのは(マタイ5:48)、わたしたちの父の神聖な命によってです。 |
エペソ 5:2 注1 |
恵みと実際(真理)が、第4章17節から32節(4:17―32)の基本的要素であるように、愛と光は(8―9,13節)、第5章1節から33節(5:1―33)における使徒の勧告の基本的要素です。恵みは愛の表現であり、愛は恵みの源です。真理は光の啓示であり、光は真理の源です。神は愛であり、神は光です(Iヨハネ4:8.1:5)。神が主イエスの中で表現され啓示される時、彼の愛は恵みとなり、彼の光は真理となります。わたしたちは主の中で神を恵みとして受け、神を真理として認識した後、彼に来て、彼の愛と光を享受します。愛と光は、恵みと真理よりも深いです。ですから使徒は、まず恵みと真理を、次に愛と光を、彼の勧告の基本的要素としました。これは、わたしたちの日ごとの歩みがさらに深く成長し、外側の要素から内側の要素に前進するのを、彼が願っていたことを暗示します。 愛は神の内なる実質であり、光は表現された神の要素です。神の内なる愛は感じることができ、神の外なる光は見ることができます。愛の中でのわたしたちの歩みは、神の愛する実質と輝く要素で構成されるべきです。これらが、わたしたちの歩みの内なる源であるべきです。それらは恵みと真理よりもさらに深いです。 |
エペソ 5:2 注2 |
使徒は第4章32節(4:32)で、神をわたしたちの日常の歩みのパターンとして示しました。ここでは、キリストをわたしたちの生活の模範としています。第4章32節(4:32)では、キリストにある神がわたしたちのパターンです。なぜならその箇所では、イエスの生活の中に表現された神の恵みと実際(真理)が、基本的要素とされているからです。しかしここでは、キリストご自身がわたしたちの模範です。なぜならこの箇所では、キリストによってわたしたちに表現された愛(2,25節)と、キリストによってわたしたちの上に照らされた光(14節)が、基本的要素とされているからです。 |
エペソ 5:2 注3 |
幾つかの古代の権威ある写本は、あなたがた、となっています。 |
エペソ 5:2 注5 |
キリストはわたしたちを愛して、わたしたちのためにご自身をささげられました。これはわたしたちのためでしたが、神へのかぐわしい香りでした。わたしたちが彼の模範にしたがって愛の中を歩くのは、人のためであるだけでなく、神へのかぐわしい香りでもあるべきです。 |
エペソ 5:2 注4 |
ささげ物は神との交わりのためであり、いけにえは罪の贖いのためです。キリストがご自身をわたしたちのために、ささげ物としてささげられたのは、わたしたちが神と交わるためであり、いけにえとしてささげられたのは、彼がわたしたちを罪から贖われるためです。 |
エペソ 5:2 注4 |
ささげ物は神との交わりのためであり、いけにえは罪の贖いのためです。キリストがご自身をわたしたちのために、ささげ物としてささげられたのは、わたしたちが神と交わるためであり、いけにえとしてささげられたのは、彼がわたしたちを罪から贖われるためです。 |
エペソ 5:3 注2 |
神へと分離され、神で浸透され、神の聖なる性質にしたがって生活している人たちです。 |
エペソ 5:3 注1 |
淫行ほど人類を駄目にするものはありません。それは特に、神が人を創造された目的と意図を駄目にし、信者たちのキリストのからだにおける召会生活を駄目にします。これは、コリント人への第一の手紙第5章に基づいています。 |
エペソ 5:4 注1 |
神に感謝をささげるとは、真理である神を語ることです。つまらないおしゃべりや下品な冗談は、虚偽である悪魔を語ることです。 |