出典 |
フットノート |
エペソ 5:23 注2 |
キリストは、召会のかしらであるだけでなく、からだの救い主でもあります。彼がかしらであるのは権威の事柄であり、彼が救い主であるのは愛の事柄です。わたしたちは、かしらとしての彼に服従し、救い主としての彼を愛さなければなりません。 |
エペソ 5:24 注1 |
ここの思想は、キリストが召会の救い主であるように、夫は妻の救い主であるというわけではないが、召会がキリストに服従するように、妻はやはり自分の夫に服従する必要がある、ということです。 |
エペソ 5:24 注2 |
神の定めによれば、妻が夫に服従することでは、何の選択もなく、絶対的であるべきです。これは、彼女たちがあらゆることで夫に従うべきである、という意味ではありません。従うことと服従することとは違います。従うことでは、その強調は従順ですが、服従することでは、その強調は服することです。罪深い事柄、神と主に逆らう事などでは、妻は夫に従うべきではありません。しかしながら、妻はやはり夫に服従する必要があります。これと似た状況で、ダニエルの三人の友は、偶像を礼拝せよとのバビロンの王の命令には従いませんでしたが、王の権威にはなおも服従していました(ダニエル3:13―23) |
エペソ 5:25 注2 |
妻に対する夫の愛は、召会に対するキリストの愛のようでなければなりません。夫は自分の妻のために、進んで代価を払い、死ぬほどでさえなければなりません。 |
エペソ 5:25 注1 |
服従の反対は支配です。しかしながら、使徒は、夫が妻を支配するのではなく、愛するよう勧告します。結婚生活で、妻の義務は服従することであり、夫の義務は愛することです。妻の服従に夫の愛を加えたものが、正当な結婚生活を構成し、正常な召会生活を象徴します。召会はキリストに服従し、キリストは召会を愛されます。愛は神の要素、内なる実質です(Iヨハネ4:8,16)。本書の目標は、わたしたちを神の内なる実質へともたらして、わたしたちが愛としての神を享受し、神聖な愛の甘さの中で神の臨在を享受し、こうしてキリストが愛されたように他の人を愛することです。 |
エペソ 5:26 注1 |
キリストがご自身を召会にささげられた目的は、召会を聖化することであり、それは、あらゆる俗的な物からご自身へと分離するだけでなく、彼の要素を浸透して、彼の伴侶とするためでもあります。彼はこれを、言葉の中の水の洗いで召会を清めることによって、成就されます。 |
エペソ 5:26 注4 |
ギリシャ語は、即時的な言葉を意味します。命を与える霊である内住のキリストは、絶えず即時的な、現在の、生ける言葉を語って、古いものを新陳代謝的に洗い去り、新しいものに置き換えて、内なる造り変えをしておられます。命の水の洗いによる清めは、キリストの言葉の中にあります。これは、キリストの言葉の中に、命の水があることを示します。これは、祭壇と幕屋の間に置かれた洗盤で予表されます(出38:8.40:7)。 |
エペソ 5:26 注3 |
神聖な観念によれば、ここの水は、神の流れる命のことを言っており、それは流れる水で予表されます(出17:6.Iコリント10:4.ヨハネ7:38―39.啓21:6.22:1,17)。ここの水の洗いは、キリストの贖う血の洗いとは異なります。贖いの血は、わたしたちの罪を洗い去りますが(Iヨハネ1:7.啓7:14)、命の水は、わたしたちの古い人の天然の命の傷、すなわち「しみやしわや、そのようなもの」(27節)を洗い去ります。主は召会を分離し、聖化される時、まず彼の血でわたしたちの罪を洗い去り(ヘブル13:12)、次に彼の命で、わたしたちの天然の傷を洗い去られます。わたしたちは今、そのような洗いの過程にいますが、それは召会が聖くて傷のないものとなるためです(27節)。 |
エペソ 5:26 注2 |
文字どおりには、洗盤。ギリシャ語では、この言葉の前に定冠詞があり、「あの」洗盤、すべてのユダヤ人に知られているあの洗盤を言っています。旧約では、祭司たちは洗盤を用いて、彼らの地的な汚れを洗い去りました(出30:18―21)。今や洗盤、水の洗いが、わたしたちを汚れから洗い清めます。 |
エペソ 5:27 注4 |
ここのしみは天然の命のものを象徴し、しわは古さと関係があります。命の水だけが、命の造り変えによって、そのような欠点を新陳代謝的に洗い去ることができます。 |