出典 |
フットノート |
エペソ 6:12 注4 |
ここの「天上」は、空中のことを言います(2:2)。サタンと悪の霊的な勢力は、空中にいます。しかしわたしたちは、彼らよりも高く、第三の天に座っています(2:6)。戦闘を行なう時、敵よりも高い地位にあることは、戦略的にとても重要です。サタンと彼の悪の勢力は、わたしたちの下にいます。彼らは、わたしたちによって打ち破られる運命にあります。 |
エペソ 6:13 注1 |
霊の戦いでわたしたちが必要とするのは、神のすべての武具であって、その一部分や幾らかの武具ではありません。すべての武具を取るためには、キリストのからだが必要です。個々の信者は、このためには十分でありません。 |
エペソ 6:13 注3 |
第5章16節(5:16)は、今の時代は邪悪であると言います。この邪悪な時代にあって、毎日が邪悪な日です。なぜならサタン、邪悪な者が、毎日働いているからです。 |
エペソ 6:13 注2 |
抵抗するとは、敵対して立つことです。戦いでは、立つことが重要です。 |
エペソ 6:13 注4 |
戦いでは、わたしたちは最後まで立つ必要があります。すべてのことをやり抜いた後もなお、わたしたちは立っていなければなりません。 |
エペソ 6:14 注1 |
ここから16節(16節)の終わりまでは、どのように立つかを記述しています。 |
エペソ 6:14 注3 |
第4章でのこの言葉の用法によれば―参照,15節のノート1(真理について)、21節のノート1(実際について)、24節のノート5(実際について)―ここの「真理」は、わたしたちの生活の実際としてのキリストにある神、すなわち、わたしたちの生活の中で、わたしたちの実際と経験となられた神のことを言います。これは、わたしたちから生かし出されたキリストご自身です(ヨハネ14:6)。そのような真理、実際が、霊の戦いのために、わたしたちの全存在を強める帯です。 |
エペソ 6:14 注2 |
腰に帯を締めるのは、わたしたちの全存在を強めるためです。 |
エペソ 6:14 注4 |
義の胸当てを身に着けるとは、胸で象徴されるわたしたちの良心を覆うことです。サタンはわたしたちを訴える者です。彼との戦いにおいて、わたしたちはとがめのない良心が必要です。わたしたちは、自分の良心にとがめはないとどれほどはっきり感じていても、それは義の胸当てで覆われる必要があります。義であるとは、神と人の両方に対して正しいことです。もしわたしたちが、神や人に対して少しでも間違っているなら、サタンはわたしたちを訴えるでしょう。そして、わたしたちの良心には穴があき、そこからわたしたちの信仰も大胆さも、すべて漏れてしまいます。ですから、わたしたちは、敵の訴えからわたしたちを保護する義のおおいが必要です。そのような義はキリストです(Iコリント1:30)。 |
エペソ 6:15 注2 |
「確固とした土台」は、「備え」とも訳されます。ここでは、平和の福音の確立を意味します。キリストはわたしたちのために十字架上で、神と人の平和をつくられました。そしてこの平和は、わたしたちの福音となりました(2:13―17)。この平和の福音は、確固とした土台として、わたしたちが足にはく備えとして、確立されました。このように足にはいて、わたしたちは確固とした足場を持ち、霊の戦いを戦うために立ちます。そのような確固とした土台のための平和も、やはりキリストです(2:14)。 |