出典 |
フットノート |
マタイ 15:3 注1 |
ユダヤ人の宗教家たちは、主の弟子たちが自分たちの言い伝えに違反していると非難しました。しかし主は、宗教家たちが自分たちの言い伝えのゆえに、神の戒めに違反していると、彼らを罪定めされました。彼らは自分たちの言い伝えを重んじましたが、神の戒めを無視しました。原則的に、今日の宗教的な人々も、同じことをしています。ローマ・カトリックと大部分のプロテスタントの宗派は、彼らの伝統のゆえに、神の言葉を無効にしています。 |
マタイ 15:4 注1 |
パリサイ人と聖書学者たちに対する主のここでの取り扱いは、彼らの言い伝えのゆえに神の言葉を無効にしたことを罪定めしただけでなく、人は両親を敬うべきであることを暗示されました。人々の間での神の行政において、神は人が両親を敬うべきことを定められました。神はこれを十戒の中で、人の関係に関する第一の戒めとされました(出20:12)。ところが、堕落した人の性質は、常に両親を無視します。すなわち、神の行政に反逆します。天の王としての主は、人を神の行政に連れ戻すために、人は両親を敬うべきであると強調されました。これは、律法の成就に関する天の王国の憲法にある彼の言葉と一致しています(5:17―19)。ですから使徒も、この事を特に強調しました(エペソ6:1―3.コロサイ3:20)。わたしたち王国の民は、両親を敬うべきであり、ユダヤの宗教家たちのように言い訳をしてはなりません。どのような言い訳をすることも、わたしたちが天の管理の下にはなく、堕落した性質と今日の世代の反逆的潮流に従っていることを示しています。 |
マタイ 15:4 注2 |
あるいは、中傷する。侮辱する。 |
マタイ 15:4 注3 |
文字どおりには、死によって死ぬ。「殺されることによって死ぬ」を意味します。ギリャ語の「死」は、「人の終わりに至る」を意味します。ですから、この句は、「殺されることによって人の終わりに至る」を意味します。これは七十人訳の出エジプト記第21章17節(出21:17)と、レビ記第20章9節(レビ20:9)から引用されています。この二つの節は、ヘブル語の慣用句です。 |
マタイ 15:5 注1 |
神へのささげ物。 |
マタイ 15:7 注1 |
第6章2節(6:2)のノート2を参照。 |
マタイ 15:8 注1 |
王国の天的支配は、単なる外側の行為だけではなく、内側の実際を要求します。そのような支配は口先の表現ではなく、心の実際の状態を取り扱います。 |
マタイ 15:9 注1 |
これは、神にささげる礼拝にもむなしいものが存在することを啓示しています。その主要な原因は、人の戒めを教えと見なすことです。わたしたちは真理である御言葉にしたがって、神を礼拝しなければなりません。 |
マタイ 15:11 注1 |
すなわち、人を俗なものや汚れたものとする(使徒11:8)。18節(18節)と20節(20節)も同じ。王国生活では、汚れは外側ではなく、内側のことです。 |
マタイ 15:13 注1 |
天の王のこの言葉によって、偽善なパリサイ人は、天の父が「植えなかった」ことを示しています。天の王を拒絶したことによって、彼らは天の王国から抜き取られました。 |