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出典

フットノート

ピリピ 1:17 注2 文字どおりには、圧迫。自己の野心からキリストを宣べ伝えた者たちは、パウロが表立って宣べ伝えることができない場所に置かれていた間、彼と彼の務めを軽んじることによって、監禁されているパウロを、さらに重く圧迫しようと努めました。監禁されているパウロの苦しみは、彼が福音を宣べ伝えたことからではなく、福音を弁明したことから起こりました。ユダヤ教宣教者は、福音に律法と割礼を混ぜてしまいました。彼はそれを弁明しました。このことが暴動を引き起こして、彼は監禁されたのです(使徒21:27―36)。
ピリピ 1:18 注1 使徒の心は、恵みによってとても広くされていました。ですから、彼の反対者が見せかけでキリストを宣べ伝えることをさえ喜びました。これは何という真っすぐな霊でしょう! これは彼の中に生きておられたキリストの命、性質、思いが成し遂げたものです。彼のキリスト経験は一つの享受でした。そのような命は、たとえどんな境遇にあっても喜ぶのです。
ピリピ 1:19 注2 これはキリストのからだ、召会の供給です。入獄は、パウロをキリストのからだから隔離したり、からだの供給から断ち切ったりはしませんでした。
ピリピ 1:19 注4 神、キリスト、その霊についての聖書の啓示は前進しています。その霊は最初に、創造と関係するとき、神の霊として述べられています(創1:2)。次に、神が人と関係する文脈の中で、エホバの霊として(士3:10サムエル上10:6)、キリストの受胎と誕生と関係する時、聖霊として(ルカ1:35マタイ1:20)、主の人としての生活と関係する時、イエスの霊として(使徒16:7)、主の復活と関係する時、キリストの霊として(ローマ8:9)、そしてここでは、イエス・キリストの霊として述べられています。
 イエス・キリストの霊は、ヨハネによる福音書第7章39節(ヨハネ7:39)に述べられている「その霊」です。これは単に、主が受肉される前の神の霊ではなく、主が復活された後の神の霊であり、主の受肉(人性)、十字架の下での人の生活、十字架刑、復活と調合された神性を伴う聖霊です。出エジプト記第30章23節から25節(出30:23―25)の聖なる塗り油、すなわちオリブ油と四種類の香料との調合物は、神のこの調合された霊の完全な予表でした。その方は今や、イエス・キリストの霊です。ここでは、イエスの霊(使徒16:7)でなく、キリストの霊(ローマ8:9)でもなく、イエス・キリストの霊です。イエスの霊は、おもに主の人性と人の生活と関係があります。キリストの霊は、おもに主の復活と関係があります。第2章5節から8節(2:5―8)に描かれている主の人性を経験するために、わたしたちはイエスの霊を必要とします。第3章10節(3:10)に述べられている主の復活の力を経験するためには、キリストの霊が必要です。使徒は彼の苦難の中で、主の人性における苦難と、主の復活の両方を経験しました。ですから、その霊は彼にとって、イエス・キリストの霊、すなわち、三一の神の調合された、すべてを含む、命を与える霊でした。使徒のような、キリストの人としての生活と復活を経験し享受している人にとって、そのような霊は、満ちあふれる供給を持ち、満ちあふれる供給でさえあります。最終的に、この調合されたイエス・キリストの霊は、神の七つの霊となります。この方は、神の御座の前にある七つのともし火であって、地上で神の行政を執行し、召会に関する神のエコノミーを成就します。彼はまた、小羊の七つの目であって、彼であるすべてを、召会の中へと注入されます(啓1:44:55:6)。
ピリピ 1:19 注3 ギリシャ語の言葉は、合唱隊の編成者、指揮者が、団員のあらゆる必要を供給することを意味します。すべてを含む霊の満ちあふれる供給は、キリストのために苦難を受ける中で、パウロがキリストを生き、大きく表現することを可能にしました。
ピリピ 1:19 注1 第2章12節(2:12)と同じギリシャ語。ここの救いは、第2章12節(2:12)の成し遂げられた救いです。それは、支えられ強められ、キリストを生きてキリストを大きく表現することを意味します(参照、2:12のノート4)。これは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を必要とします。
ピリピ 1:20 注1 使徒の肉体における苦難の中で、キリストは大きく表現されました。すなわち、キリストが表され、偉大である(無制限に)と宣言され、高められ、賞賛されました。使徒の苦難は、キリストの無限の偉大さを表現する機会を、彼に与えました。使徒は、律法や割礼ではなく、キリストだけが彼の中に大きく表現されるようにしました。本書はキリストの経験を取り扱います。どんな状況下でもキリストを大きく表現するのは、キリストの最高の享受を経験することです。
ピリピ 1:21 注1 パウロの生活は、キリストを生きることでした。彼にとって生きることはキリストであり、律法や割礼ではありませんでした。彼は律法を生きようとしたのではなく、キリストを生きようとし、律法の中に見いだされるのではなく、キリストの中に見いだされようとしました(3:9)。キリストは彼の命であるだけでなく、彼の生活でもありました。キリストが彼の中に生きておられたので(ガラテヤ2:20)、彼はキリストを生きました。彼は命においても生活においても、キリストと一つでした。彼とキリストは、一つの命と一つの生活を持っていました。彼らは一人の人として共に生きました。キリストはパウロの内側でパウロの命として生き、パウロは外側でキリストの生活として、キリストを生きました。キリストの正常な経験は彼を生きることであり、彼を生きるとは、状況にかかわりなく、常に彼を大きく表現することです。
ピリピ 1:21 注2 ここの「益」は、さらに高い程度でキリストと共にいることを言います。しかし、神の永遠の目的を成就することで、キリストと共にいることと、キリストのからだのためにキリストを生きることとは、比較することができません。ですからパウロは、キリストを生きることを選んでのです。
ピリピ 1:23 注1 キリストと共にいることは、場所ではなく、程度の問題です。パウロはすでに、常にキリストと共にいましたが、さらに高い程度でキリストと共にいることを願っていました。パウロは肉体の死を通して、この地上の生活で享受したよりもさらに十分に、キリストと共にいるようになることでしょう。
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