出典 |
フットノート |
ピリピ 1:29 注2 |
キリストのために苦しむことは、キリストを受け入れ、信じることを通して、彼と一つにされた後のことです。それは、わたしたちが彼の苦難の中で、彼を経験し、享受するために、彼の苦難(3:10)にあずかり、彼の苦難の交わりを持つことです。これは、彼が拒否され反対される状況の中で彼を生き、彼を大きく表現するためです。 |
ピリピ 1:30 注1 |
パウロは、神の恵みによって、神の新約エコノミーのために立てられた一つの模範でした(Iテモテ1:14―16)。新約の信者たちは、パウロがキリストのために受けた苦難の中で行なったように、キリストを生き、キリストを大きく表現することによって、キリストを経験し享受すべきです。それは、彼らが、パウロと恵みに共にあずかる者となるためです。 |
ピリピ 2:1 注1 |
キリストの経験が豊かであったパウロは、第1章で信者たちに、自分の経験を示しました。今やこの章で、彼は信者たちに、彼と交わりを持つようにと求めます。キリストを経験するためには、信者たちと使徒との間に、そのような相互の交わりが必要です。 |
ピリピ 2:1 注2 |
あるいは、勧め、励まし。 |
ピリピ 2:1 注3 |
すなわち、内側の愛情。文字どおりには、はらわた。第1章8節(1:8)と同じ言葉です。 |
ピリピ 2:2 注3 |
ピリピ人の間には、彼らの思うことに相違があって(4:2)、これが使徒を悩ましていました。ですから、使徒は彼らが同じ事を思い、さらに同じ一つの事を思って、自分の喜びが満ちるようにしてくれるようにと求めました。 |
ピリピ 2:2 注4 |
これは、ピリピの信者たちが、彼らの思いの相違のゆえに、さまざまな水準の愛を持っていたことを示します。彼らは一を守るために、すべての聖徒に対する同じ愛を持っていませんでした。 |
ピリピ 2:2 注5 |
これは、ピリピ人の間にあった思いの相違は、彼らが魂の中で結合されておらず、彼らの思いの中、すなわち魂の主要部分の中で、一つの事を思っていなかったことに基づいていたことを示します。ピリピ人の問題は、彼らの霊にではなく、彼らの魂に、すなわち、思いにありました。彼らは再生を通して、彼らの霊の中にキリストを持っていましたが、造り変えを通して、彼らの魂の中にキリストを持っていませんでした。キリストが彼らの魂全体に浸透し、占有されることによってのみ、彼らは魂の中で一つとなることができるのです。 |
ピリピ 2:2 注6 |
本書の分脈によれば、ここの「一つの事」は、キリストについての主観的な認識と経験を言っているに違いありません(1:20―21.2:5.3:7―9.4:13)。キリスト、ただキリストだけが、わたしたちの全存在の中心性と普遍性であるべきです。わたしたちの思考は、キリストに対する認識と経験の卓越性に、焦点づけられるべきです。それ以外のどんな事に焦点づけることも、わたしたちに異なった思いを持たせ、こうして、わたしたちの間に思いの相違をつくり出します。 |
ピリピ 2:2 注3 |
ピリピ人の間には、彼らの思うことに相違があって(4:2)、これが使徒を悩ましていました。ですから、使徒は彼らが同じ事を思い、さらに同じ一つの事を思って、自分の喜びが満ちるようにしてくれるようにと求めました。 |