出典 |
フットノート |
ピリピ 2:6 注2 |
神である有り様ではなく、神である表現であり(ヘブル1:3)、神のパースンの本質と性質と同一です。ですから、それらを表現します。これは、キリストの神格を言っています。 |
ピリピ 2:6 注1 |
ギリシャ語は、初めから存在することを意味し、主がすでに永遠から存在しておられたことを示しています。 |
ピリピ 2:6 注3 |
主は神と等しかったのですが、彼は神と等しくあることを、固守すべき尊いこととは見なされませんでした。むしろ、彼は神の形(神の性質ではない)を脱ぎ、ご自身をむなしくして、奴隷の形を取られました。 |
ピリピ 2:7 注1 |
すなわち、彼が所有しておられたもの―神の形を脱がれました。 |
ピリピ 2:7 注2 |
6節(6節)と同じ言葉です。主は受肉において、彼の神聖な性質を変えられませんでした。主はただ彼の外側の表現を、神の形、最高の形から奴隷の形、最低の形に変えられたにすぎません。これは本質の変化ではなく、状態の変化でした。 |
ピリピ 2:7 注4 |
神の形は、キリストの神格の内なる実際を意味します。人の姿は、主の人性の外なる表れを示します。主は外側では人として人々に現れましたが、内側では神として神格の実際を持っておられました。 |
ピリピ 2:7 注3 |
すなわち、新しい状態に入ることです。 |
ピリピ 2:8 注2 |
すなわち、外側の見かけ、外観。これは、7節(7節)の人の「姿」という思想の、さらに特別な意味での繰り返しです。キリストが彼の人性において表すものは、人としての有り様において人々に見いだされました。 |
ピリピ 2:8 注1 |
キリストは、人の姿となって、人性の状態へと入られた時、人としての有り様で見いだされました。 |
ピリピ 2:8 注3 |
ご自身を低くするとは、ご自身をむなしくすることのさらに進んだものです。キリストがご自身を低くしたことは、ご自身をむなしくされたことを明らかに示しています。 |