出典 |
フットノート |
ピリピ 3:7 注1 |
7節(7節)と8節(8節)は、この書の心臓部です。ここでわたしたちは、キリストの経験へと導き入れられます。 |
ピリピ 3:7 注2 |
5節から6節(5―6節)で述べられている事柄。 |
ピリピ 3:7 注4 |
かつてパウロにとって益であったすべての事柄は、彼がキリストにあずかり、享受するのを妨げ、抑制しました。ですから、キリストのゆえに、すべての益は彼にとって損失でした。 |
ピリピ 3:7 注3 |
さまざまな益はすべてパウロによって、一つの損失と勘定されました。なぜならそれらはすべて、「キリストのゆえに」という言葉によって示されているように、キリストを失うという一つの結果になったからです。 |
ピリピ 3:8 注1 |
8節から11節(8―11節)は、一つの長い文章ですが、階段を上っていくように、わたしたちを一歩一歩と高く上げていき、11節(11節)の頂点に到達させます。 |
ピリピ 3:8 注2 |
パウロは、5節(5節)と6節(6節)で列挙した彼の以前の宗教の事柄だけでなく、他の事柄もすべて同じように、キリストのゆえに損失と勘定しました。 |
ピリピ 3:8 注3 |
キリストを知る知識の卓越性は、彼のパースンの卓越性から来ます。ユダヤ人は、モーセを通して与えられた神の律法を、人類の歴史における最もすぐれたものと考えています。ですから、彼らは律法に熱心です。パウロはかつて、それに熱心でした。しかし、神がキリストを彼に啓示された時(ガラテヤ1:15―16)、キリストの卓越性、超越性、無上の尊さ、ずば抜けた価値が、律法の卓越性をはるかにしのぐものであることを、彼は見ました。キリストについての彼の認識は、キリストを知る知識の卓越性という結果になりました。このゆえに、彼は律法や、律法にしたがって立てられた宗教だけでなく、すべての事柄を損失と勘定しました。 |
ピリピ 3:8 注4 |
5節から6節(5―6節)に三度使われている「については」という句は、「によれば」と訳してもよく、律法、熱心、義について言っています。7節(7節)と8節(8節)に三度使われている「のゆえに」という句は、「のために」と訳してもよく、キリスト(二度)、キリストを知る知識の卓越性について言っています。キリストは律法、律法に熱心であること、律法にある義と相対します。キリストを知る知識の卓越性とキリストご自身は、律法と他のすべての事柄と相対します。キリストとキリストを知る知識の卓越性のゆえに、パウロは律法、律法に対する熱心、律法にある義、他のすべての事柄を放棄しました。これは、キリストとキリストを知る知識の卓越性が、律法やすべての事柄にはるかにまさっていることを示しています。 |
ピリピ 3:8 注5 |
くず、がらくた、汚物、犬に投げ与えられるものを示します。ですから、犬の食物、ふん土です。そのようなものとキリストとは、比べようもありません。 |
ピリピ 3:8 注6 |
キリストを知るとは、単に彼についての知識を持つことではなく、彼のパースンを得ることです。キリストは、神たる方の豊満の化身であり(コロサイ2:9)、すべての積極的な事柄の影の実際です(コロサイ2:16―17)。何かを得るには、代価を払うことが必要です。キリストを得るとは、代価を払うことによって、彼の計り知れない豊富すべてを(エペソ3:8)経験し、享受し、所有することです。 |